2012年04月04日

For a victim of a natural disaster

DSC01985.jpg


人間は思いの主人であり、
人格の制作者であり、
環境と運命の設計者である。
【ジェームズ・アレン】


東日本大震災から、早くも1年が過ぎました。
今年も、3月11日はアメリカにいましたので、どんな慰霊祭等があったのかは存じませんが、私も被災者の一人として、被災地の方々の一日も早い復興と、お亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りしたく存じます。

私たちが被災した、阪神淡路大震災からは既に17年という月日が過ぎましたが、未だに不思議な事に意識の上では被災者です。
もし、何かの犯罪に巻き込まれてしまうと、被害者になるのでしょうが、被害者が事件の解決後にも関わらず、被害者として呼称される事はあるのでしょうか。
軽微な犯罪の被害者なら、ある程度の時期を過ぎると、恐らくは被害者とは呼ばないでしょうし、重罪であっても、ある手続きを経た後には“元”被害者と呼ばれているように思います。
という事は、被害者には時限がありそうです。
ところが、被災者には“元”被災者という言い方はしないのは、何故でしょう。

そもそも被災者とはどんな意味があるのでしょう。
以下、ウィキペディアに掲載がありましたので、以下に引用致します。

----------ここから----------
被災者(Victim, Disaster victim)とは、災害にあった人(人々)のことである。
被災者とは、地震・台風等の天災や、事故・事件等の人災にあった人(人々)のことである。ただし、事件や事故の場合は被害者と呼ばれて、被災者と区別されることが多い。
因みに、被害者とは、刑事法学(刑法学、刑事訴訟法学)では、「犯罪により害を被った者」をいうそうです。
----------ここまで----------

私は法学部の出身でもありませんし、法律関係のお仕事をした事もありません。
従って、専門の知識は殆ど持ち合わせていないのですが、法律や法令関係の事を知らずに過ごす事も出来ません。
とは言え、大変その解釈は難しいと、感じています。

天災にあった人(人々)のことを、被災者と呼び、人災にあった人(人々)のことを被害者と呼称する…という単純明快なルールだと、大変理解しやすいと感じるのですが、事故・事件等の人災にあった人(人々)の事を被災者と呼び、事件や事故の場合は被害者と呼ばれるとすると、事故によって害を被った者の事をどちらで呼称すべきなのでしょう。

法律で、事故をどのように定義しているのか、調べないとなかなか埒が明かないようですが、その前に、事故という言葉の一般的な意味が何であるのかを、調べてみる事にします。

安易にウィキペディアに頼るべきではないと思うのですが、概略の理解には最適だと勝手に判断して、再び引用させて頂きます。

----------ここから----------
事故(accident)とは、思いがけず起こった悪いできごと。よくないことが起こること。
事故とは、一般的な用法では、予期していなかったのに、人のからだが傷ついたり生命が失われたり、あるいは物が損傷したり財産に損害が発生するような出来事のことである。

故意に損害を起こすことを事件と呼び、事故と区別する意味で用いられる場合もあるが、本来の事件というのは事故も含む広範な意味を持つ語であって、損害を起こすという意味だけで用いられる語ではない。
なお、痛ましい事故・事件の場合は、「惨事」とも称され、特に大きく悲惨な事故・事件の場合は「大惨事」とも称される。
----------ここまで----------

惨事や大惨事は天災でも使うようなので、益々訳が分からなくなって来ます。

一般認識としては、故意または能動的に市民生活を阻害したり、犯されるべきではない利益を侵害したりする事を事件と言い、過失または偶発的に起こる事を事故と言うが、事件という言葉に事故の要因も包含する事がある…という感じでしょうか。

事件と事故との境界線がどこにあるのかについては、私の理解力の限界を超越していますので、これ以上深堀するのは止めておきます。

他方、法律用語としての「事件」とはどのような解釈なのでしょう。
またまたウィキペディアを参考にさせて頂きます。

----------ここから----------
法令用語としては、事柄・案件のこと。官公庁におけるある種の手続について個別の手続を「事件」と呼び、事件番号を付すなどして管理されることがある。住民票の請求、情報公開請求、許可申請、戸籍訂正申立て、損害賠償請求、犯罪捜査など、いずれも事件である。裁判実務上は、訴訟事件の略としても使用される。
日本語の「事件」の語は、「事柄」「案件」を表す語から構成されており、元来、犯罪性、騒擾性という意味はないが、犯罪性、騒擾性のある出来事の意味で用いられることが多い。「殺人事件」「強盗事件」などは1と2の両方の意味を持つことがある。
事故でも社会的な影響が大きいと事件と呼ばれることがある。
----------ここまで----------

では、法律用語で「事故」とは、どのような解釈なのでしょう。

内閣法での事故とは、業務の執行の支障となるような出来事のことである。(内閣法9条)
【出典:Wikipedia】

事件にしても、事故にしても、その語源とは随分かけ離れた意味だったようです。
本質的な意味と違った認知が進んでいるという事なのでしょうね。
このような事情があるため、事故と事件との境目があやふやでも、仕方がないのでしょう。
業務の執行の支障となる出来事の影響力が社会的に見て、大きな規模になると事件と呼ばれるという事で、何と無く納得するのが正解なのでしょう。
因みに、英語では被災者も被害者も同じ“Victim”という言葉で表現します。

さて。
被災者と被害者の概念を明確にするべく、語源を探したのですが、チョッと回り道をしてしまいました。
本質的な意味や、通念とは少し違うかもしれませんが、今回は、天災を直接経験した人々の事を「被災者」と呼称させて頂く事にします。

私は17年前に、阪神淡路大震災を経験した被災者です。
昨年3月11日の東日本方大震災を、とても他人事だとは思えません。
これはやはり、過去の震災によって自身が体験した事が、意識ベース領域に常に滞在しており、その経験がニュース等を見る度に、フラッシュバックして甦って来るからだと、勝手に想像しております。

私が被災した時には、水もガスも電気もなかなか来ない状況が続きましたが、雨露をしのぐ場所は確保されていましたし、食べ物も飲み物も、更にはビールもありましたので、知己を頼る事も殆どせずに、ほぼ自活して生活する事が出来ました。
従って、私が貰うと、本来必要としている方々に届かないと思っていましたので、支援物資も炊き出しもお風呂も配給も全てお断りし、一度もその恩恵に浴す事はありませんでした。
たとえ被災者であったとしても、冷静さと自分らしさを失いたくなかったのです。

ところが、これはあくまでも私の場合です。
被災地の現状は、現地に行かなければ分かりません。

そこで、震災後1年を経る直前の3月4日から、私の所属している団体のボランティア活動を実現すべく、仙台市を訪問させて頂く事にしました。
目的は、視察ではなく、交流活動です。
対象は、大人ではなく、子供たちです。
行程は、空路ではなく、延々陸路です。

昨年「被災地児童夏休み招待プロジェクト実行委員会」が、神戸市教育委員会を事務局として発足しました。
当該委員会が、昨年8月1日〜4日の3泊4日で仙台市立岡田小学校の6年生40人を神戸市に招待しました。
子供たちは神戸市に滞在中、神戸市の施設をはじめとして色々な場所を訪問し、神戸市の小学校生との交流も行いました。
大変喜んでいたそうですが、子供たちの記憶が新しいうちに、再会を果たしてあげたいと思い、お節介プロジェクト(ボランティア)を発動させました。
タイトルは“がんばろうキッズ〜インターネット交流〜”です。

私が所属しているその団体は、神戸市が事務局をして下さっている地域におけるICTの利活用を促進する事を目的にしています。
産業界、役所、学校、個人等が会員の団体です。
その団体の中に、幾つかの委員会と、幾つかのワークショップがあり、私は、子供たちの交流活動のお手伝いを目的にした、委員会のリーダーを現在拝命しております。
この委員会の発足は2000年ですので、12年以上続いております。
今に至るまで、オーストラリアや中国を対象に、国際交流のお手伝いを続けて来ましたが、今年の活動は震災繋がり、被災地繋がり、そして当該委員会を発足させた方が、2004年のスマトラ沖地震の津波でお亡くなりになられましたので、津波繋がりでもあります。

プランの起案後は、メンバーによる話し合いもどんどんとヒートアップし、飛行機では現状がわかりにくいので、車で行くべきだ!
お金ではなく、現物をプレゼントした方が、子供たちは喜んでくれるはずだ。
交流は、インターネットを活用するので、NTTさんに協力して貰えないだろうか。
メディアにも協力して貰って、仙台市の頑張る子供の姿をこちらに伝えて貰えないだろうか。

それら全て採択して、企画はアッという間にまとまりました。
子供たちへの支援は、私の知己を頼りました。
何の見返りもお約束出来ないのに、大変多くのご提供品が集まりました。
友情に感謝です。
人は志に共感すると、確実に呼応して下さるのかもしれません。
車は、ワンボックス型のレンタカーを借りましたが、荷台は隙間無くご提供品で埋まりました。
片道900キロを超えますが、今回は4名で交代に運転するので、気分的に楽チンです。
NTT西日本さま、NTT東日本さまにご協力頂く事も出来、それぞれの学校に光ケーブルを敷設するだけではなく、会議システムまで貸与頂き、本当に有り難かったです。

朝、神戸を出発して、仙台市到着は当然夜。
ホテルにチェックインして、翌朝に備えます。
ホテルの予約も、ネットで簡単。
便利な時代になりました。

翌日は、状況視察及び交流先の小学校へ、事前訪問及びテスト。
コッソリと子供たちへのお土産の準備。
夜には、宮城県のICTの団体への表敬訪問並びに交流。
仙台市は震災の痕跡もなく、被災地と呼ばない方が良いと感じました。

そして、交流活動本番を迎えます。
子供たちの緊張した面持ちが、交流活動が進むに連れて徐々に解れて行くのが、我々への最高の喜びでもあり労いでもあります。

今回の交流では神戸に来た経験を持つ6年生だけではなく、5年生にも参加して貰いました。
今回の交流活動を通じて仙台市の子供たちに、神戸への思いの種を蒔きたいと思ったからです。
その種が芽吹き、来年の交流活動で花を咲かせたいと思ったからです。
両方の小学校の校長からも、来年度の交流への協力を約束して、今年度の活動を終えました。
子供たちの輝くような笑顔と挨拶と、来年も再会出来るかと思うと、今からとてもその時が楽しみです。

他方、現地の状況は、未だ問題が山積しています。
私たちが目の当たりにしたのは、仙台市から車で30分程度の範囲内なので、全てを見て回った訳ではりませんが、それでもその悲惨な状況は十二分に伝わりました。
仙台空港に程近い、閖上(ゆりあげ)という港町を訪れました。
笹かまぼこ屋であった“佐々直”の社屋が、雪で真っ白に覆われた大地に、ポツンと佇んでいる映像は、多くの方に津波の凄さを理解するに十分なインパクトを与えた、その場所です。
嘗て、そこに町があった事を示す、唯一とも言える存在が佐々直の社屋なのです。
仔細に観察すると、かすかに雪の間から覗く土台を発見する事も出来るのですが、広大な台地に殆ど何も建っていないのを目の当たりにすると、津波の壮絶な威力を恐怖感と共に実感させられます。
津波が流した家屋等の瓦礫の撤去は、日本全土が協力しないと進まないのは、現地に行ってその規模の大きさを実感しない限り、仕方のない事なのかもしれません。
人は、客観的な情報伝達だけで現地の状況が理解出来る程に、想像力が豊かではありません。

復興までには、長い月日が必要だという事実認識は、国民全員にとって必要な事です。
ハードとソフトの復興、即ち環境整備と心のケアの両方が不可欠なのですが、今回の震災の規模では地方だけの問題として捉えると、永遠に問題の解決は出来ません。
阪神淡路大震災の時がそうだったように、先ずは市民生活に不可欠なハード面での復興を国や県、市等が中心になって推進し、その後徐々に心のケアを市民の協力も得ながら推進して行くのが最善の策だと思うのですが、今回はハード面の復興もままならぬ状況で、心のケアがおざなりになってしまわないか、少し心配です。
心のケアには、国民が被災地の方々の事を決して忘れていない事を、被災者の方々に意識して頂くために、大規模なイベントも必要でしょうが、市民レベルでの息の長い交流活動やボランティアを機能させないといけませんね。

東北地方の最大規模の企業は、東北電力だそうです。
関連会社(60社)を含めると3万人程の雇用があるそうです。
更に、東北地方で1万人以上を雇用している企業は、他に1社もないのだとか。
今回の震災で復興が進まない理由の一つが、福島県の原発の問題であるのは、紛れもない事実ですが、一方で、東北地方最大規模の企業が東北電力という皮肉な現実と対峙して、復興を積極的に推進するためには、民間レベルではなく国レベルでの取り組みが不可欠でしょうね。

更に、最後に紹介させて頂きたいのが、現地の方がポツリとこぼした言葉です。
記憶を辿って記載しますので、言葉が違っているかもしれませんが、ご容赦下さい。

“阪神淡路大震災の時には、町が全焼して大変だったと聞きましたが、消失したのは家屋だけなので、再建も早かったでしょう。我々は津波によって被災し、被災した土地が被災地認定されたので、元の場所に家を建てる事が出来ないんですよ。”

被災者として東北地方の方々と共に、一刻も早い復興に向けて少しずつではありますが、永続的な活動を続けて行きたいと思い、ここに小さく宣言させて頂きます。


ボランティアを行った団体である“地域ICT推進協議会”(通称:COPLI)のホームページ
posted by 辻村謙一 at 17:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月29日

Humanistic psychology and Existentialism

_800px-FBIHoover3.jpg


組織を持った瞬間に、あなたはメンバーに対して 
モティベーショナルな触媒になる責任を負うのです。
メンバーは上司からのモティベーションがなくても
成功することがありますが、それは極めて稀な例です。
これは人生の厳然たる事実です。
【ポール・J・マイヤー】


先日、久しぶりに映画を見に行きました。
題名は“J・エドガー”。
クリント・イーストウッド氏の監督作品は、見逃せない。
少なくとも私は。

どうも、話題にも余りなっていないような状況のようですが、そんなの私には関係ありません。
事実、お仕事を早めに切り上げて、レイトショーの時間帯に見に行ったのですが、開始時間の5分前に到着した私が一番乗り。
その後、パラパラとお客様は入場されていましたが、最終的には私を含めて僅か5名のための上映会。
実に勿体無い。
しかし、ここだけの話し、有難い。

内容に関して、ロードショーの最中に触れるのは禁忌ではありますが、私は映画のコメントには不慣れであり、内容に触れずに日記が書ける程、器用でもありませんしそのような力量をも持ち合わせておりませんので、ご容赦下さい。

レオナルド・ディカプリオ氏の演技というか、存在感や表現力が殊更凄いと感じました。
言葉のみならず、目や表情で感情を表現している(と、私は感じました)。
いわゆる言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションを、高度に連鎖させて我々に訴求しています。

また、クリントイーストウッド氏の作品に共通する、人間の表層に顕在化した行動と結果や成果と、人間の本性との間の往復活動を通じた問いかけが、今回の作品にも盛り込まれていました。
特に、今回は実在したジョン・エドガー・フーバーという人物像が、テーマ。
殆どの日本人にとっては、余り縁のない方でしょうが(事実私も不勉強から存じませんでした)、アメリカでは大変な有名人だとか。
そりゃそうですよね。
FBIのドンとして、8人もの大統領と深く関与された人物ですから。
日本と違って、任期の長いアメリカ大統領との関与の仕方は、日本人が想像する以上に深いモノだったのでしょう。
彼のような、あからさまな人種差別者を48年もの間、長官として就任させていた当時のアメリカの状況とは、一体どんなものだったのか。
一度だけでしたが、KKK(クー・クラックス・クラン)の名前もあげられていましたので、差別主義がまだまだ蔓延していた時代だからこそ、彼のリーダーシップが発揮出来たのかもしれません。

権力への飽くなき執着や、母親との関係、少し特殊なプライベート。
働きながら夜間の大学に通い、司法試験に合格する努力と才能。
学生時代のコンプレックスなのか、ワシントン大学出身者である事の誇りと、強調された選民意識。
共産主義自体への強烈な嫌悪感。
キング牧師へのイヤらしい政治的脅迫。
自分こそがリファレンスなのだ、と言わんばかりのスーツへの拘り。

大統領との関係性がやがて崩れ、嫌疑の対象として捉えられるようになりますが、彼は自分の最後を予見していたのでしょうか。
秘密ファイルを秘書に託し、彼の死後秘書によって抹消されてしまいます。
あたかも、彼の存在を全て消し去るように。

非凡なる才能を発揮し、アメリカの司法界で大活躍したのは、間違いなさそうです。
しかし、成功の裏には、屈折した感情やコンプレックスがあり、ナイーブなキャラクターの彼の、孤独と虚栄と屈折したが故に極端に肥大化した、自信とが入り混じった、J・エドガーという人物。

クリント・イーストウッド氏は静かに我々に問いかけます。

彼は何者でしょうか。
あなたは彼を何者だと思われますか。

権力をあれだけ誇示していながら、死後自身の痕跡を消してしまう。
人は、自分の生きた証を、後世に残したいものなのではないのか。
自分の認知している範囲の中だけで、認知欲求が果たして充足されるのだろうか。

今回、映画が始まって直ぐに気付いた事があります。
それは、大変静かな映画だという事。

冒頭、共産党員が持ち込んだ爆弾が、二発だけ爆発するのですが、大音量はそのシーンのみだったと思います。
それ以降は、極めて静かにストーリーが進んで行きます。
音楽は何曲も流れていましたし、ボスとして君臨する彼が部下などを怒鳴る事もある。
ところが、やはり静かなのです。

このような静かな映画は、少しの雑音が集中力を遮断させる事になりますので、場内の会話や雑音は少ない方が良い。
クリント・イーストウッド監督が、派手な宣伝をしないのは、そのような意図があったのかも(実際にはそんな事ないでしょうけど)。
そう思いたくなる程、地味な映画でした。

どのような映画であっても、製作者はその映画を製作するに際し、見る方に伝えたい何かを訴求すべく、時代であったり状況であったりはしますが、緻密な背景の設定は重要です。
ところが、他国の歴史的史実を背景とする映画では、その理解が製作者の意図とば別に進まずに、訳が分からなくなる事もあります。
伝える側の伝え方の問題と、見る側の想像力・理解力不足に起因する場合とがあるように感じます。

クリント・イーストウッド氏が製作する映画は、ストーリーを理解しようとすればする程、背景への依存度が比較的高く求められるように思いますが、それは氏が見る側の解釈を求めているからではないか。
氏の予め想定したテーマを、そのまま受け取るも、曲解するも、加工するも自由。
あたかも、見る側に、結論を急ぐ事なく静かに語りかける、絵画のような世界観を持つ映画を求めているのかもしれません。
更には思案し続けるうちに、背景を超越して想像を膨らましている事に、気付かされる事も珍しくはありません。
そして上映される映画に於いては、少なくともドキュメンタリー映像で無い限り、時代考証や背景描写を含めて史実に必要以上に忠実に従う必要などありません。
見る人それぞれが、それこそ勝手な視点から映画を楽しめばよいのですし、例えば同じタイミングで劇場に足を運んだ人同士で、映画を見終わった後に交わす感想から、おのおのの感性の違いを確認しあって楽しむのも、映画の楽しみの一つ。
尤も、映画を見終わった後、一緒に感想を述べ合う事があるとしたら、興奮して喋り過ぎる性向のある私は、同行者に迷惑をかけたくないので映画には殆ど一人で行くため、その楽しみはないのですけど。

また、今回の映画では対比の手法を多用していたように感じました。

過去と現在との対比。
支配と服従との対比。
プライドとコンプレックスとの対比。
優越感と劣等感との対比。
構築と消去との対比。
未熟さと老獪さの対比。
実態と虚像との対比・・・。

だから、この映画では言葉の持つ意味が、殊更大きいのでしょう。
だからこそ、言葉を浮き彫りにするために、静かな映画となったのではないかいな。
そのように感じました。

心理学にも様々な領域と流派と考え方等が存在しておりますが、人間性心理学(Humanistic psychology)と実存主義(Existentialism)の観点から、この映画の主役であるJ・エドガーを私なりに理解しようと思います。

実存主義とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(Essentia)に対する現実存在(Existentia)の優位を説き、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張する思想であり、人生の意味や死の意味に重点を置いていますが、人間性心理学は、ひとりひとりを異なった独自の存在と見なすが自己実現の活動を主眼とします。

人間性心理学の父とされるアブラハム・マズローは、人間はひとりひとり自己実現(Self-actualization)を目指す内的傾向がある、との見解を示した。人間のある種の成長への欲求を存在動機(Being motivation)と呼び、より高次の価値を求める人間について研究した結果生まれた、マズローの欲求階層説は大変有名な主張です。

J・エドガーは、自身の本質存在と現実存在との両方を強く認知し、個別的な現実存在の優位性を主張し続けた人だったのでしょう。
自己実現欲求を極めて純粋に、貪欲に求めた結果、益々内的傾向を強めると同時に、対外的な存在動機をもアピールし続ける必要があったのか。
その反復運動を続けなければならなかったがために、どこかで歪が起こり、何かで中和させなければならなかったのか。
と仮定すると、彼の奇行(と私の目には映る)も何となく、理解出来たような気になります。

彼の、成長への飽くなきエンジンは、何に起因しているのかは、全く分かりません。
コンプレックスなのか、それとも偶発的且つ後天的要因なのか。
しかし、成長への欲求を存在動機と呼ぶ、人間性心理の一端を垣間見る事が出来た事は、私自身の自己実現欲求を充足する時の、客観的指標や参考事例になりそうです。

普段は移動中の飛行機の中で見るのが、精一杯なのですが、やはり映画はスクリーンで見るのが良いですね。
没入感が全く違います。
妄想の膨らみ方も全然違います。

たまには映画館に足を運ばないといけないな。

さて。
今度はどの映画を見に行こうかな。

J.Edgar Hoover[1895-1972]
posted by 辻村謙一 at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年01月31日

A Revolutionary Redefinition of Leadership

az8_bor.jpg


今、当社の中には危機感はないと思うけれども、
僕にはある。それでいい。
組織に属する人には、危機感ではなく
モチベーションをもたせなければならないから。
多くの企業がやっているように、
危機感を煽るのは間違いですよ。
やっぱり仕事は楽しくやらなくちゃ。
僕の危機感は、企業を取り巻く環境は
30年も経てば変わってしまうと思うところからくるもの。
どんな企業でも安泰ということはないでしょう。
どこかで新しいことをやっていかないといけない。
【飯田 亮】


いつの時代にあっても、その時代を象徴する人物や出来事は、偶然と必然との、深く不思議な関与によって生まれてくるのだと思います。
今の時代を象徴する人物や出来事を論じるには、後々の検証が必要なので避けますが、人それぞれ思い入れのある分野や業種等で、この人は…というその時代時代のヒーローやヒロインはいらっしゃる事と存じます。
政治家であったり、地方の名士であったり、新製品であったり、事件や事故であったり、現実の世界であったり、空想だったり、文化であったり、産業であったり、学問であったり、嗜好であったり…と、その領域は多岐に亘り、枚挙に暇がありません。

自身の少年時代と今の時代との対比の中からも、様々な類推を行って楽しんでみたりもしています。

私事ですが、何故か幼少の頃からの興味の対象の一つに、カメラが挙げられます。
何故カメラに興味が湧いたのかは、自分でも不思議です。
そのメカニカルなところや、媒体そのものや、それにまつわる機会そのものに、興味の源泉があったのかもしれません。

戦前・戦後を通じて活躍した日本を代表する、いわゆるリアリズム系の著名なカメラマンとして、土門拳氏と木村伊兵衛氏を挙げても、異論は出ないのではないかと思います。
両氏、作風は全く違うものの、それぞれに強烈な信者も未だ多く存在しております。
それだけ強烈な作品や印象等を残したという事なのでしょう。

私は、木村伊兵衛氏の撮影する写真が大好きです。

レンジファインダーのドイツ製のLeitz(現在のLeica)のカメラに、装着した短焦点レンズ。
カメラを武装するのではなく、身体の一部として常に携行し、日常を不自然にならないように、丁寧に記録する。
その時代、その地域で生活する人々の、その場の情景を、ピントや色彩やコントラストに拘り過ぎる事なく、また過度に芸術としての写真に変質する事もしない。
敢えて開放気味の絞りによるボケや、黒白フィルムによる粗い粒子を生かして、残す。
写真には何も足さずに、引き過ぎない。
勝手な想像ですが、私にとって木村伊兵衛氏はそんな印象。

残念ながら、私が氏の素晴らしさを認知する事が出来るか出来ないかという頃に、ご逝去なさったので、直接お話しを伺う機会も、お目にかかる機会も得られませんでした。
しかし、木村伊兵衛氏の素晴らしい功績を称え、ご逝去の翌年には“木村伊兵衛写真賞”が朝日新聞社の手により創設された事からも、その影響力の大きさを実感させられます。

その“木村伊兵衛写真賞”の第1回受賞作品が、北井一夫氏による“村へ”という作品です。
北井一夫氏はまだ現役でご活躍なさっていらっしゃる現役の写真家でいらっしゃいますが、私が写真に興味を持って最初に衝撃を受けたのが、朝日カメラに掲載されていた北井一夫氏の黒白写真でした。
農村に働く人や、景色、何気ない会話や厳しい気候。
湯気立ち込める湯治場や寒風の中のまたぎ、嫁入りや葬儀や地蔵盆。
初めてその作品に触れた瞬間から、黒以外の色のない写真に見入ってしまい、そして引き込まれて行きました。
適度に粗く、白い印画紙の上に複雑に点描されたような、極端に小さな黒いドットの数々から、何故多くの情報や情景を想像させられるのだろう。

集落の人々の先には、笑いを。
野焼きの煙には、においを。
歩みの足元からは、音を。
農作業の老夫婦からは、汗を。
そして、様々な人の生活からは、息吹を。

それが不思議で仕方ありませんでした。
写真が、可視化可能な真実を写すだけではなく、時として時を越えて空気感まで伝える事が可能なのだと理解したのが、この時からでした。
第1回の“木村伊兵衛写真賞”受賞作品としては、最も相応しい写真であり、受賞すべくして受賞した作品なのだと感じます。
この作品を撮影するのに、北井一夫氏が使用していたカメラの一台が、ライツミノルタCLというライツブランドの国産カメラです。
それにロッコール40mm/F2とキャノン25mm/F3.5を装着して、撮影なさっていたのですね。
25mmという画角で切り取る風景写真が、殊更私の目には新鮮に写りました。

そして、木村伊兵衛氏が晩年使っていたフィルムと、北井一夫氏がこの賞を受賞した作品で頻繁に使っていたフィルムとが、ほぼ同じだったと記憶しております。
アメリカのイーストマン・コダック社のトライXという黒白のフィルムです。
憧れの写真家の撮影した素晴らしい写真に、少しでも近付けるようにと、単純で影響を容易に受ける私が、以後トライXを頻繁に使うようになったのは、至極当然の事です。

年明け早々、私にとって衝撃的なニュースに、大変驚かされました。
あくまでも、私にとって…ですけれど、そのニュースとは“イーストマン・コダック社が破産法を申請した”です。
数多くの企業倒産の一つではないか。
確かにその通りではあるのですが、以上のような理由によって、一企業の倒産以上の意味が私にはありました。

倒産の理由として挙げられていたのが、急速に発展していくデジタル化への対応が遅れたのと同時に日本の企業との競争に負けたから…と記事にはありました。

ところが、世界で最初にデジタルカメラを作ったのが、実はコダック社。
1975年12月、イーストマン・コダックの開発担当者であるスティーブ・サスーン氏が、世界初のデジタルカメラを発明したのです。
画像サイズは100×100の10000ピクセルという、今ではトイカメラ以下のお粗末さですが、撮影した映像をテレビに映すことも出来る、当時としては画期的な製品でした。
商業写真として使われている、シノゴ(4×5in判)程のサイズでしたし、カセットテープに記録するため、軽便なカメラとして機能させるのには、まだまだ多くの時間が必要だったのですが。

写真フィルムでかつて世界を席巻した名門、イーストマン・コダック社ほどの企業が、先を見通さずに経営を続ける訳はない。
次世代記録媒体としてデジタルカメラの開発を行った事からも、未来予想図を早い段階から描いていたのは、明らかである。
にも関わらず、法的整理に追い込まれたのは、先に触れたデジタル化への対応速度が、日本企業等と比べて遅かった事だけなのだろうか。
確かに過去に栄華を極めた企業ほど、現在の環境認知が遅くなる傾向にあるとは言われます。
イーストマン・コダック社はジョージ・イーストマン氏によって、1880年に写真乾板製造会社として創業後、機能性に優れた商品を次々開発して業容を拡大し、写真用フィルムの世界最大手になりました。
米国を代表する企業として、コダック株は2004年までダウ工業株30種平均の構成銘柄でもあり続けた事からも、如何に絶大なる支持を得ていたかが分かるというもの。

だが、1980年代に入って脱フィルム化が促進する等、競争が激化します。
起死回生を図るべく進出したプリンター事業も業績回復の決め手になる事が出来ません。いち早くデジタル化に方向を転換した富士フイルム社等と比べて、転換の速度がどうしても後手に回ってしまった結果が、今回の破綻へと繋がったのでしょう。

フィルム会社に於いて、写真用のフィルムのニーズが消滅していく現実に、どのように対処すべきなのかは、大きな大きな課題であり、大変な決断と努力と覚悟が必要だった事でしょう。
コダックの現状を憂うよりも、富士フィルム(現在の富士フィルムホールディングス)社やコニカミノルタホールディング社の、強かな生き残り術を賞賛すべきですね。
コアビジネス喪失による事業ドメインの変更(拡大)は、両企業の規模を鑑みると、成功した事が奇跡的な程の難度の高い離れ業だったという事は、おそらくは間違いありません。

お正月を写そう…とおめでたいCMを毎年のお正月に放映していた富士フィルム社ですが、今や同様のテイストのCMによって、全く違うドメインである筈の化粧品や医薬品等を売り込んでいる。
実に見事だと感心しながら眺めています。
部門廃止や移籍、リストラ等を行うのみならずM&Aをも積極的に行っていた、その努力の成果がこのような結果の違いとなったのでしょう。
コダック社が未だフィルム会社から脱却していないのに、富士フィルムホールディングスはデジタル事業部も持つ化学メーカーとして、その機能を全うしようとしています。
コニカミノルタホールディングスも、現在はTACフィルム事業等に注力し、次世代照明として期待される有機EL事業も育成する等、現状への最適化への道を邁進しています。

過去の実績に胡坐をかくのではなく、来るべき未来への果敢なる挑戦こそが求められる時代に変化したという事を、この対比から痛切に感じさせられました。

成長時代に於ける方程式と、成熟時代の方程式とは、全く違って来ています。
これからの時代、嘗てのようにはっきりと未来がイメージできるものではないと思います。
民間人から登用された、公立中学校の校長先生第一号でもある、藤原和博氏の最新著書である“坂の上の坂”に非常に分かりやすい記述がありますので、そのまま以下に引用します。

「私はよくこれをゴルフに例えます。百メートルのショートホールがあるとします。
成長社会というのは、ホールがすっかり晴れていた。
とりあえず、グリーンもピンもはっきり見えます。
風向きもわかります。
それでキャディさんに相談して、七番で行くか九番にするか、といった判断をします。
しかし、成熟社会ではそうはいきません。
霧でホールがまるで見えないのです。
しかも、いつまで経っても霧は晴れてはくれない。
晴れないとすれば、とにかく打ってみるしかありません。
霧が出ていても、少なくとも方向だけはわかりますから。
クラブも何でもいい。
とにかく打ってみる。
よく見えないから精度は悪いけど、なんとなくぼんやり、こっちじゃないかな、という方向はわかる。
打っていくとだんだん、やっぱりそうだった、いや違ったということもわかる。
試行錯誤をしているうちに、やがてグリーンが見えてきます。
まだ旗は見えないけど、再び何度か打ってみると、いまピンの横を通り過ぎた、アッ、ここにカップがあった、とだんだんわかってくる。近づいてみると、とうとう見えた。なるほど、ここにあったのか、とカップに向かっていよいよパットしてボールを入れる……。
(中略)
成熟社会では、そもそも戦い方のルールが違ってしまっている。できるだけ正確を期して、どんなに時間をかけてもいいから少ないアプローチでゴールにたどりつく、というルールではなくなってしまった。
何打打ってもいいから、とにかく早くゴールに辿り着く、というルールに変わっているわけです。
これがまさに、成長社会から成熟社会への変化だと私は考えています。
霧が晴れるのを信じていつまでも待ち続ける人より、アプローチの数は多くてもさっさとホール数をこなしていく人のほうが勝つのが成熟社会です。
アプローチを試行錯誤でこなしているうちに、どれくらい打てばいいのかの勘所も掴めるし、霧への対処法もマスターできるでしょう。
“正解”にこだわることなく、“修正”を繰り返していくことで、経験を積み上げ腕を上げていけばいいのです。」
*藤原和博著『坂の上の坂』株式会社ポプラ社、2011年、98〜100ページより一部抜粋

また、東大、マッキンゼーを経て、現在、京大で絶大な人気の瀧本哲史氏が、新しい経済の流れで、自分の力で道を切り開き、ゲリラとして生き残るための「武器」について、投資家としての経験から、語った新書である“僕は君たちに武器を配りたい”からも、面白い視点から今回の破綻を予感させられる記述がありましたので、再び引用します。

「さて、投資家的な観点からすると、就職して一生サラリーマンの道を選ぶ、というのも35年ローンで家を買うのと同じくらいハイリスクな選択である。
それはかつて、日本の4大証券の一角を担った山一證券が突然自主廃業したときのことを例に挙げればよく理解出来る。
1997年11月22日の朝、山一證券に勤めていた社員は、日本経済新聞のスクープを見て初めて自社の倒産を知った者がほとんどだったという。
記事を読んでも、経営陣の記者会見をテレビで見るまで、本当に自分の会社が潰れるとは信じられなかった社員がたくさんいた。
(中略)
この山一證券の倒産に巻き込まれた社員をたとえるならば、自分の乗っていたジャンボジェット機が、突然墜落すると言われるようなものだろうか。
機長も客室乗務員も、「この飛行機は安全に運航しております」とアナウンスしているが、実は致命的なトラブルが機体に起きている状況だ。
このまま放っておけば墜落は間違いないのに、機内は快適に空調が保たれ、何のトラブルも起こっていない。
乗客は飛行機の異常に気づかないままでいるが、突然「5分後に墜落します」と告げられる。
その瞬間から機内はパニックになるだろう。
しかし誰にも、どうすることもできない。
しかしもしも、トラブルが起きたのが、自分の操縦する小型のセスナ機だったらどうだろうか。
何かしらの機体トラブルが起こったとしても、自分で操縦しているのだから、異常にすぐに気づくことができる。
危機に気づけばそれを回避するための行動をとることができるし、最悪の場合は近隣の空港や広い道路へ緊急着陸をすることも可能となる。
それが、自分でリスクを管理し、コントロールするということだ。
サラリーマンとは、ジャンボジェットの乗客のように、リスクをとっていないのではなく、実はほかの人にリスクを預けっ放しで管理されている存在なのである。
つまり、自分でリスクを管理することができない状態にあるということなのだ。
大学を出て新卒で会社に入り、定年の60歳まで働いたとすると38年間を会社で過ごすことになる。
しかし近年、会社の「寿命」はどんどん短くなっている。
平均すると30年ぐらいで「会社の一生」は終わるようになっている。
人間の平均寿命は80歳を超える。
だからこそ、ひとつの会社に自分の人生をすべて委託するのは非常に高リスクなのである。」
*瀧本哲史著『僕は君たちに武器を配りたい』株式会社講談社、2011年、228〜231ページから一部抜粋

奇しくも、本日の日本経済新聞社に、ゴタゴタ続きのオリンパス社関連の記事がありました。

「ソニー、富士フイルムホールディングス、テルモが30日までに、損失隠しに伴う決算訂正で自己資本が目減りしたオリンパスに資本・業務提携を提案した。世界シェアの7割を握るオリンパスの内視鏡事業を足場に少子高齢化などで拡大する世界の医療ニーズを取り込み、成長戦略の柱に据える狙いだ。オリンパスの上場維持が決まり提携のリスクが下がったことを受け、業種の異なる3社が名乗りを上げる異例の争奪戦が始まった。」

引用:日本経済新聞社2012年1月31日朝刊記事より一部抜粋
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819696E1E2E2999F8DE1E2E2E3E0E2E3E09C9CEAE2E2E2

社名こそカメラ関連メーカーとしての名残を留めておりますが、内実はオリンパス社の内視鏡を中心とした医療関係のリソースの争奪合戦となっています。
社名こそカメラ関連メーカーとしての名残を留めておりますが、内実はオリンパス社の内視鏡を中心とした医療関係のリソースの争奪合戦となっています。
以前よりその傾向は顕著だったのでしょうが、改めて“あの”オリンパス社のカメラの売り上げが、キャッシュフローを含めた財務の健全化にも、さしたる影響のない程度と知り、大変驚くと共に厳しい生存競争を生き抜く事の難しさを実感させられます。

寄らば大樹の陰。
安心を得るためには、大きな規模の会社が安心。
そう思って企業に就職する時代は過ぎたのかもしれません。
今や、成熟社会への対応が求められるだけではなく、劇的な変化へ如何に素早く対応出来るのか。
それを経営陣、従業員を含めて全社員一丸となり果敢に立ち向かって行く、開拓者的な精神が求められる時代になったのではないかとも、感じます。

とは言うものの。
世の中の全てが変化していく訳ではありませんので、不易流行とか無用の用とか、昔から語り継がれて来た、アジア人の温かな生活習慣や文化も穏やかに守って行きたいですね。

久しぶりに、木村伊兵衛氏や北井一夫氏の写真集を書庫から引っ張り出して、眺めて過ごす時間を取りたいと思った今日この頃でございます。

イーストマン・コダック本社のHP
posted by 辻村謙一 at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年12月31日

“Emotional Marketing”

r100mono%20(3).jpg


人生の中で、今が一番いい。
でも五年後、十年後にも
今が一番と言える人生になっているか。
そのために僕は、毎日
『楽しさ』と『ときめき』を追求し、
夢を語り続けています。
【北原 照久】



物凄く個人的な事なのですが、私は高校時代よりずっとバイクに乗り続けております。
私がバイクに興味を持ち始めたのは、かなり小さな頃からなのですが、その影響の源泉はやはり父親が乗っていたからだと思います。
バイク黎明期には、アメリカ大陸を駆け抜けるバイクに憧れた日本人も多く、中小規模の会社も数多くバイク製造会社として名を連ねており、今とは違い、相当な数に上ったと聞いております。

アメリカのハーレーやイギリスのトライアンフやドイツのBMWが最高峰のバイクとして君臨し、それらのメーカーに追いつけ追い越せと、メグロや陸王といった伝説的な会社も誕生し、魅力的なコピーバイク(?)を世に送り出していました。
メグロは現在のカワサキと合併し、幾つもの名車を誕生させました。
その一台が、W650というバーチカルツイン(直立並列2気筒)の欧州テイストのバイク。
キャブトンマフラーというコブラのような形状をし、独特の音を発する存在感の大きなバイクでした。
そのバイクを父が暫く乗っていたのです。
今とは違い、ヘルメットの着用の義務もなく、小学校の夏休みに宝塚までW650の後ろに乗せて貰って、短いながらもツーリングに連れて行って貰ったのを、今も鮮明に記憶に残っています。
その後、父は体調を崩し、暫くはバイクから遠ざかっていたのですが、私がバイクに乗るようになってから、逆に刺激を受けたのか、急にBMWのバイクを買うと言い出し、ある日本当に購入して参りました。

父は、内臓の病を罹患していたのですが、懇意にしているバイク屋の方に、父に対して心配だからとバイクから降りるように言わないようにと、釘をさされていました。
バイクに乗るという楽しみを取り上げてはいけない、という理由と、バイクに乗るんだという気持ちを取り上げてはいけない、という理由からです。
身体はどんどん小さくなっていき、大きなバイクに乗るのは余りにも危険に感じるのですが、多分そんな事は乗る方が傍よりも何倍も感じている筈。
他者に怪我でもさせたら…という心配をするのも、他者を使って説得しようとしているだけ。
チョッとした段差にも、バイクを支える事が出来なくなり、日に何度も立ちゴケする自分の姿を見られたくなかったのか、こちらが進言する前に自然にバイクに跨るとは言わなくなりました。

父が亡くなってからも、BMWの設計哲学に惚れて、ずっとBMWを乗り継ぎました。
3気筒、4気筒、2気筒のバイクに乗り継ぎ、4気筒と2気筒のバイクは乗らなくなってもいつか整備して、乗ろうと保管していました。
ところが、最初にBMWが我が家にやって来てから20年経った頃から、その哲学に魅力を感じる事が少なくなり、日本製のバイクに乗りたくなり、スズキのバイクを購入しました。
あくまでも私見ですが、バイクは自動車程には古いバイクも古さを感じないので、長く乗り続ける事が出来るように感じますが、それでも20年の差は驚くべきものでした。
最初は乗り方が分からずに、怖々接したものです。
我ながら情けない状態でした。

20年の間に、走る・曲がる・止まる、のレベルが何倍にも向上していたのです。

これはショックでした。
そしてこの体験が、BMWから気持ちが益々遠ざかって行く事になりました。
そして、二度と整備する事もなく、どんどん朽ちて行きました。

バイクを売るなら…と盛んに宣伝をしている会社が幾つも登場し、売りやすい状況になっているのは分かっていましたし、今まで何度か問い合わせをした事もありました。
しかし、今まで25年(国産を購入して5年経ちますから)の長きに亘り、所有(というには放置し過ぎですが)していたバイクが手元からなくなる事を想像して、結局二の足を踏んでしまう…という事を繰り返していました。

そして、極め付けがスズキのバイクが余りにも高性能過ぎたために、命の危険を感じるようになって、別のバイクを購入してしまった事。
さすがに毎日乗り続けると、鈍って来た反射神経の事は明後日の方向に忘れて、早く走れていた時のイメージだけ甦って来たのです。
ある時、急ブレーキをかける必要に迫られたのですが、バイクは何事もなかったかのように真っ直ぐにスッと停車しました。
余りのストッピングパワーに驚くと同時に、自分の愚かさと加齢の現実を思い知ったのです。

そして、新しく今度はイタリアで製造しているヤマハのバイクを購入しました。
このバイクは、エンジンは古い設計なれど、車体は最新のテクノロジーで製造されています。
これが実に心地よい。
久しぶりに、ピッタリシックリと来るバイクに巡り合え、BMWのバイク2台とスズキのバイク1台と駐車場に4台ものバイクが鎮座する事になりました。
さすがに、これを我慢できるのは2年まで。
今年の年末までには、少なくともBMWの2台は売却しよう。
スズキのバイクも、誰か買ってくれる人がいたら売却しよう。

そう決めて、今月遂に複数のバイク買取会社に一括請求出来るサイトから申し込みました。

日程は、申し込みをした日から最低でも7日以上先に。
出来れば複数の業者に同時に来てもらい、高いほうから買うようにする。

それは、過去に資料請求した際に、やり取りして教えて貰った事です。
そして、6社に請求し、結局4社から返事があり、2社に査定に来て貰えました。

返事がないのは、中堅の買取会社でした。
最大手はさすがにスケールメリットからか、直ぐに連絡があったのみならず、こちらの希望する日程で一発オッケー。
二番手と思しきところは、かなり融通が利かない感じで、日程調整が当日になっても出来ずにお流れ。
そして中堅の会社から、最大手とほぼ同じ対応で、こちらの希望する日程で一発オッケー。

バイクの買取を経験して、値段がこれ程までに変わるのかと驚かされました。
一社のみだと、基本的に査定の基準額程度までしか支払って貰えないのです。
何故なら、オークションでもバイクは購入できるので、その際の基準となる査定額(これは毎月変動しますが、全国統一の価格です)以上出すのであれば、オークションで必要なバイクを必要な時に買えば良いのです。
ところが、複数の入札方式が2社以上の査定だと利用でき、値段がどんどん上がって行く可能性が高いのです。
更に、不動車の場合は、この傾向が殊更強くなるのではないかと想像しました。

私は今回、最終的には3台まとめて査定をお願いする事にしたのですが、想像していた以上の買取金額の提示がありました。
合算でするよりも、1台毎に入札した方が高い値段を提示して貰えます。

不動車であり、且つ5年以上も放置して、錆だらけの不人気車のBMWの直列4気筒のバイクでさえも、それなりの値段が付いた事には、正直驚かされました。
最終的には、キレイに整備され、私が受け取った金額の10倍以上の値段を付けて市場に並ぶのでしょうが、私には整備する事も販売する事も出来ません。
それを考えると、私が受け取った金額は当然納得すべき金額であり、整備し店頭に並んだバイクを誰かに購入して頂けるのであれば、それは大変光栄な事。
私のような年齢の、特にリターンライダーには、最新のバイクよりも20年以上前のバイクの方を好んで頂けるのかもしれない。
一人でもライダーがステキに道路を駆け抜けて下さり、次の世代のライダーが生まれる事を心より待ち望みます。
私は父がライダーだったので、自然にバイクへの興味が生まれましたが、バイクに興味を持つ若者が減っていると聞き、少し悲しい気持ちでおります。

更に備忘のために記載しますが、バイクの状態はかなり詳しく時間をかけて調べられます。
しかし、あくまでも基本となる査定額に基づいて判断されますので、改造していたりリペイントされていない限りは、さほど買い取り価格には反映されないみたいです。
因みに無料の買取額の上限提示額は、見せ掛けの金額なので何の判断材料にもなりません。

最終的にはそれぞれの会社の都合で全てが判断されます。

*買取に出向いたのなら、手ぶらでは帰りたくない。
*入札に負けたくない(負けたら手ぶらで帰らなければならない)。
*バイクの状態をチェックし終えた車体は、仕入れのリスクがオークションより低いため、オークション相場より高い金額でも買う(場合が多い)。
*上限金額の決定者は担当者⇒上司⇒上司と上がって行く。
*その都度、電話で相談し、最後は現場の判断。
*但し、最後は泣きが入ります。

プロと言えど、購買のプロセスではかなり感情の介入する余地が大きいようです。
これは、現場の方からジックリと伺いました。
だって、トータルで3時間以上お話ししながらの取引でしたから。

人間は最後は感情で動くもの。
私も3時間に亘り、ご一緒させて頂き、たくさんのお話しをさせて頂いた方に売却出来た事で、大変満足出来ました。
多分、その方々には二度とお目にかかる事はありませんが、共有した時間と共感した瞬間が人には何よりも大切なのでしょうね。

Emotional Marketingと言えなくもない。
かなり強引な結論でしたけど、やはり感情と時間は人との取引には大切なのだ、と痛感する事が出来ました。

皆様には、今年も大変お世話になり有難うございました。
来年も引き続きご愛顧のほど、宜しくお願い申し上げます。

皆さま、良いお年を!

Marketing Strategy/Emotional Marketing
posted by 辻村謙一 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年11月30日

“The 10,000 Hour Rule”

scatploa.gif

バレリーナの稽古は、
技術を磨くことではなくて、自分を磨くことです。
終わりのない自分との闘い。
【吉田 都】



リクエストがあれば基本的にお断りする事なく、様々な場所に出張したりしながらお話しや講義をさせて頂いています。
とは言え、私が特別に上手な講義や講話を行える訳ではないので、毎日のように話が舞い込むという状況ではないのですが、どんなスピーチの達人も、生まれた時から達者であろう筈もなく、場数を多く踏みながらその実力に磨きをかけていった結果、そのステータスを獲得出来るようになる、というのは当然の事。
私は、自分の対話能力の才能の有無は分かりませんが、元々スピーチが上手な訳でも好きだった訳でもなく、小さい時から対話を重視した鍛えられ方をされた記憶も全くありません。
どちらかというと、内向的な性格で大人しい子供だったために、逆に人前でスピーチをするのが苦痛だった記憶は、十分に残っています。

私の父は、昔気質の昭和一桁代生まれの次男坊。
反骨精神と負けん気と勢いで生きたような人。
しかもそんな性格で、中学校の教員を死ぬまで勤めたために、わが子への教育方針も非常に熱心かつ極めてシンプル。

“スパルタ教育”こそ、最高の教育手法である。

そんな父ですからよく怒られましたし、よく叩かれもしました。
今の時代だとさしずめ、体罰だと取られかねない扱いもしばしば受けましたが、その経験があって今の私があるのは間違いない。
私は、父の事を恨むどころか、逆にひたすら感謝しております。
ところが、昔気質の人間は(というか私の父は)都合が悪くなると黙ってしまう癖があるので、言葉にしなくとも相手の気持ちを汲むべし…というどこか釈然としないリクエストを、しばしば強いられました。
従って、私の家庭環境に於いて、いわゆるノンバーバル・コミュニケーションによって成立する関係性が、極めて重視されたのも、私が話し下手になったのともしかしたら相関があるのかもしれない、と勝手に想像しております。

ともあれ。
過去を振り返るより、前を向いていかねば。

元々会話下手が経験値を重ねないと、家族以外の人様とのコミュニケーションがスムーズに取れる筈もなく、更に私は喋らずにお仕事が完結するいわゆる職人でもない。
職人だと、黙って唯我独尊的に誰もなし得ないようなレベルの高い作品なりを世に送り出し、弟子か何かを取った暁には“俺もそうしたように、お前も背中を見て学びやがれ…”とか何とか言ってもサマになるかもしれないけれど、職人以外が喋りもせずお仕事をする様は、憐憫の情を掻き立てられる可能性がかなり高そう。
何より、元来ネクラで内向的な私のキャラクター的にも、喋らずにいるのと友達も作れないだろうし、完璧に哀れみを感じさせる事は間違いなさそう。

人様との関係性があって初めて成立する社会構成員として、やはり言葉による会話は必要だと痛感する事が多く、社会に出てからの私にとって、コミュニケーションスキルの向上は、長年の懸案課題でした。
孤独が怖いのではなく、孤立を避けたいと考えました。
だから、必死になって自己表現について考え、そして実践し続けた毎日だったように思います。

そのような私が、今はコミュニケーションに関する講義をしているのだから、世の中何が起こるか分からない。

The New Yorkerのスタッフライターであるマルコム・グラッドウェル氏の著書“Outliers: The Story of Success”によって一躍注目を浴びたのが“10000-hour rule”「一万時間の法則」。
この著者によると、伝説的なプログラマーのビル・ジョイのような人や、ビル・ゲイツや、ビートルズのようなバンドの成功も、「一万時間の努力」と、いくつかのタイミングが支配しているのだとか。
努力なき成功はあり得ないという事を、具体的な時間軸を使って説明しているのですが、生まれ持った才能に磨きをかけなければ決して結果は得られない。
「練習をせずに天才的才能を発揮する」人も、「いくら練習をしても上達しない人」の両者も見られなかったという研究結果も出ているそうです。

同じ事を毎日毎日、飽きもせず続ける事が出来るだけで、それが一種の才能です。
私のような何の結果も出せていない人間は、その結果以前に継続出来る事自体が素晴らしい事だと思います。
このように多くの時間(一万時間)の練習や鍛錬を続けた上に、「偶然のタイミング」が重なった結果、有名な成功者になれる場合があるのですね。
「時代の呼び声」があった時に、ちょうど一万時間の積み上げを完了していて、その呼び声に答えられた人が「時代の寵児」になれるのだという訳です。
一万時間の積み上げを目標に、まだ決して遅くはない…と自分の気持ちを常に鼓舞させながら、頑張る事としようかな。
厚かましいか。

ところで、この本の題名である“Outlier”の和訳が“天才”というのは違和感ありますね。

辞書にもこのような記載があります。

outlier【名】
アウトライアー、戸外に寝る人、任地に住まない人、飛び地、分離物、本体を離れたもの、離層、離島
《統計》異常値
《統計》外れ値◆必ずしも異常値とは限らない
【出典:英辞郎 on the WEB】

和訳するとしたら、“出る杭”…というような日本語が相応しいのかな。
でも、確かに出る杭というタイトルだと、とても売れそうにないですね。
自分ならどんなタイトルをこの本につけるだろう。
チョッと考えてみるのも面白いかもしれないな。

さて、話を振り出しに戻します。

短期の非常勤講師契約をして、現在とある県立高校の講師をしております。
特別授業の講師なのですが、高校一年生を相手の授業です。
近年、教育界に於いても各セグメント毎に、最適化が精力的に行われております。
とかく批判の集まる文部科学省ですが、教育という非常に扱いにくい分野にも関わらず、様々な取り組みがなされていると、私個人は思っています。
時代の求める要求にも応えなければならず、他方国として時代を超越して目指すべき指針も示さなければならない。

私がこの度関与させて頂いた高等学校は、義務教育を終えた生徒を対象にした3年制(定時制は4年制)の機関ですが、主に職業等を念頭に作られた専門高校と、一般的な教育に重きを置いた普通高校とに大別出来ました。
ところが、近年、このような分け方が必ずしも現代社会に適しているとも限らずその中間的な総合学科と呼ばれる、科目選択の幅のかなり広い高等学校が平成5年の通達により明示され、平成6年に誕生しました。

•幅広い選択科目の中から生徒が自分で科目を選択し学ぶことが可能であり、生徒の個性を生かした主体的な学習を重視すること。
•将来の職業選択を視野に入れた自己の進路への自覚を深めさせる学習を重視すること。

以上の目的を念頭に、その教育成果の上昇と共に設置校も徐々に増え続け、平成22年度には338校の総合学科の高等学校が存在します。
総合学科の構想が当時の文部省内で起案された時から、「産業社会と人間」という科目の設置が提示され、総合学科の高等学校1年生の必修科目として制定されたのです。
その科目を担当させて頂いたのです。

総合学科の良い点は、多様な選択肢の中から自分の興味のある分野を選べる、多様性にあります。
従って、私のような非常勤講師が各分野から今回、6名参加させて頂いております。
大学の先生が3名、県の職員が2名、そして私の6名。

6つのクラスをそれぞれの講師が担当し、クラスの中から選抜したチームが、学年全体の集まる中で発表をします。
私は当然私のチームを応援します。
高等学校の1年生は当然社会に出た経験もなければ、多くの集まる前で研究成果の発表を行った経験も、あったとしても少しだけという状況の中、健気に懸命に頑張っている姿を見ると本当に微笑ましくもあり、来年以降の彼等彼女等の成長が楽しみです。
当たり前の事ですが、各指導者によって生徒たちの発表の質のバラつきが生じ、その差が想像以上に大きかったのには、本当に驚かされました。
冷静になって考えると、当たり前の事なのですが。

このような審査会の場合、審査員による結果のバラつきはさほどないのですが、今回に限っては、私の評価と他の講師の方の評価とが全く同調していないのにも驚かされました。

次回は、講師間で事前に話し合いを行ってから、生徒たちに関与するのが良いのではないかと思いました。

各講師からのコメントからも様々な事が学べます。
ある大学の准教授から「世の中には、物知りの事を“はかせ”と“はくし”と二つの呼び方があるが、“はかせ”は単に知識が豊富な人の事。“はくし”は尊重すべき対象を意味するので、皆さんには“はくし”を是非目指して欲しい。」というコメントがあったのですが、何が言いたいのか私には意味が分かりません。
大学の世界では、このような“専門用語”が通じたとしても、高校生に果たしてその例え話が通じるのだろうか。
そんな事を言っても、生徒たちが一万時間の練習をしようという気には、きっとならない。
未来ある若者たちが将来への夢を持って、果敢にもあらゆる分野に挑戦を繰り返し、産業社会で生き抜く人間となるための、希望を与えるための講義を行うのが、我々講師の務めの筈。
講義を受けた生徒たちが、よし、この分野で生きて行こう…と決断を行う事が出来、目標に向かって我武者羅に突き進んでいけるようにと、生徒たちを送り出すためのゲートウェイであるべきなのに。
もう少し相手の事を考えてコメントすべし…と、僭越ながら思います。

勉強すべきは、子供たち以上に大人たちですね。
私ももっと勉強してもっと経験を積んで、より良いお仕事が出来るように頑張らねば。

一万時間を迎えた時に、私がどのような状態にあるのかが肝心。
目標と目的をしっかり見据えて、不断の努力を重ねる事にしよう。


Outliers: The Story of Success : Malcolm Gladwell
posted by 辻村謙一 at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年10月31日

From Barrier Free to Barier Value

01000000000000119092687858022.jpg


希望を抱かなければ、
本質的な意味で行動者になることはできないし、
行動を起こす根源的な勇気も湧いてこないであろう。
希望と勇気は精神的な血族なのだ。
【小野 浩三】



バリア・フリーという言葉も、随分と社会の中に浸透したようです。
しかし、言葉が定着したとしても、その概念が浸透しなければ余り意味はなく、概念が定着して始めて活動へと繋がって行くのでしょうね。
バリアをフリーにする事は、その利便性を享受する立場になって始めて、恐らくは有難さや意義が理解出来るもの。
その立場になるまでは、意識する事も殆どないのが悲しいかな、現状でしょう。

身体に障害(最近では障碍や障がいと記載する事が増えましたが、ここでは敢えて障害)の無い方であっても、加齢によって足腰が弱くなると兎角、チョッとした段差等にも躓く事が多くなり、バリアがフリーである事の有難さを、実感する事になるのでしょうね。

階段を上るのも、嘗てとは違い随分と骨が折れるようになった私ですが、体力的な要因によって上る事が辛くなった事と、物理的に介助等がなければ上る事の出来ない事とは、天地ほどの差があるのは理解できます。
しかし、本質的に身体の不自由な方々が、どれ程不自由を感じていらっしゃるのかは、分かるはずもありません。

先日、現役の男性大学生から、体験談を伺う機会がありました。
彼は、生まれつき骨が弱く、歩くという行為の経験を殆どせずに、車椅子の生活を送る事を余儀なくされています。
紆余曲折を経ながら、現在は恐ろしく前向きに生きています。
自分の立場のような人たちのお役に立ちたい…という思いを現実のものとすべく、学生ながらも起業して社員を雇用している社長業も兼務しているのです。

その彼が、22年間の経験を通じて感じたり体験した事を披露してくれました。
このような素晴らしい若者と出会うと、物凄く嬉しくなると同時に我が身を振り返り、彼と同年代の頃の情けない生き方を思い出し、とんでもなく恥ずかしい気持ちになります。
ところが、上手く出来ているもので、歳を重ねると厚かましさを十二分に身に付ける事が出来ますので、これでイイノダ…とか何とか誰聞かれる事無く呟いて、恥ずかしさに恐ろしく早い速度で蓋をする術を使う事が出来るようになったのです。
これは良い事なのだろうか…という疑問が浮かび上がったとしても、私は私に知らん顔します。

それはさて置き。

先ずは、バリア・バリューという言葉の披露から。
彼は、好むと好まざるとに関わらず、骨が弱い状態である事に変わりなく、バリアとは常に向き合わなければならないのです。
そのバリアをどのように定義するべきなのか。
彼の経験から、バリアをフリーにする事から一歩も二歩も進めて、バリアをバリューと定義する事が必要であると訴えました。
失礼ながら、22歳の若者の話しに、最初は然程期待はしていませんでした。
ところが、最初のバリア・バリューという発想に、早くも引き込まれるように聞き入ってしまい、気が付けばアッという間に予定していた時間を過ぎていました。

この発想は、我々にはとても出来ない発想です。
この発想を、彼はどのようにして獲得したのだろう…。
それを明確にすべく、彼の今に至るまでの経緯を、以下に簡単にご紹介させて頂きます。

快活な彼は、愛情に満ちた両親の寵愛を受けて、スクスク育ちます。
但し、最初に立ち上がった、否、立ち上がる事が出来たのが3歳の時。
それはそれは、感動的な瞬間だったそうです。

その後、小学校に上がってからも、骨の弱い彼は肝心な時に骨折を繰り返すものの、周囲の協力に支えられて、明るく学校生活を満喫していたそうです。
階段の上り下りもの際にも、彼の周りの友達が車椅子に乗った彼を、車椅子ごと抱えて昇降の手伝いをしていました。
彼が障害者であるという事を、彼のクラスメートは差別の因子ではなく個性として、学校に過ごす仲間の一人として包含していたのです。

ところが14歳の時に、あるクラスメートから掃除をサボった彼の事を、障害者だから仕方ない…という表現をされ、始めて障害者であるという現実と、向き合う事を迫られるのです。
多感な時期と重なり、その事実認知に激しく落ち込む事になります。

更に、中学校までは階段の上り下りは、車椅子ごと友達に抱えて貰っていましていたが、高校生になると、その姿を女の子に見られたくないという意識が働いて、学校に行けなくなるのです。

この頃、それまでの様々な経緯が重なり、彼もネガティブな精神状態になる事も多くなり、17歳の時、自殺を考える事も何度かあったのですが、入院していた彼は骨折防止のために、病室のベッドにギブスを嵌められており、起き上がる事も出来ずに、自害すら出来なかったのです。

その時、自分の無力さに起因する余りに悲しい現実に失望し、交際中の彼女に自殺宣言をしてしまうのですが、その後彼の身を本気で案じた彼女から、泣きながら電話がかかって来たのです。
病室への電話が禁忌である事は、お互い承知していましたので、電話があったのはこの時のみ。
彼の事を必要としてくれる人の存在が、彼から死ぬ意欲を失わせた。
逆に言うとその一本の電話が、彼に生きる勇気と必然性を与え、この時を境に少しずつ、生きる意欲が生まれたとも言えるのです。

一念発起した彼は、大検(高卒認定試験)を受けて合格し、大学を受検。
無事大学に合格し、念願の大学生活を送る事になるのですが、退屈で仕方がない毎日でした。
ここで彼が大学生活に見切りを付けるのではなく、自立を心掛ける事にします。
社会の仕組みを学ぶべく、ベンチャーの服のデザインをしたり売ったりしている会社でアルバイトを始める事にします。
ところが、ベンチャーの常で、24時間休みなしで働く会社でした。
彼も、身体的なハンディはあるものの、持ち前のガッツを存分に発揮し、その事務所の仕事を選り好みする事なく行い、殆どの仕事をマスターしていき、社会で生きていくための基礎力を身に付けていきます。
やがて、彼は自分でも会社を立ち上げていくだけの自信を得て、小さな会社を学生ながら設立させました。
3人で始めた会社でしたが、現在は7名のメンバーに恵まれて、心斎橋にオフィスを構え、順調に業績を伸ばしています。

障害=ハンデ?
障害=マイナス?
障害=不幸?
そうではない。
障害をバリュー(価値)と定義して始めて社会の機能となるのです。

彼の率直な感想として、障害があって良かったなんて、絶対に思わない。
当たり前ですよね。
障害がなければ出会えない事があるのは事実。
営業に行っても、100%覚えてくれる。
どのようにその属性を捉えるのかが大切だと説くのですが、この辺りに彼の凄さが垣間見えます。

障害=価値+強みであると定義していました。
さて、ここから障害を獲得していない我々が、何を学べるのでしょうか。

更に、外部環境についての説明も受けました。

大学に通う障害者の数は、現在6000人ですが、これは大学生全体のたった0.16%に過ぎません。
大学に在学するも、長期で入院をしている障害者のサポートが必要だとか。
この現状にも、新たに気付かされました。

障害者全体のたった5%しか就労が出来ておらず、7割が1年以内に退職してしまう現実。
規制による義務的な雇用ばかりが注目され、能力・教養が低い障害者の方が逆に就業し易い。

1級・2級の障害者手帳を保持している限り、成人になった後、毎月8〜9万円が生活手当て等として振り込まれる。
これが就業への意欲を剥奪したり、離職を促している現実もあるそうです。
そのような現状に憂う彼は、障害者を雇用したから売り上げが伸びた…という社会にしなければならないと力説します。
例えば障害者の特性を活かす事で、商品開発やサービスの向上に寄与すべく機能させる。
現在のライターは、片手で着火出来るように改良した結果生まれたそうです。
その利便性を障害者の方のみならず、普遍的に多くの方がその便益を享受出来ている現状を、更に共有する事が必要なのでしょうね。

アレグロという1本3000円以上もする高級タオルは、全盲の人達が開発しました。
この商品開発には、全盲の方の極めて鋭敏な手先の感覚を活かて、糸や素材を厳選したのだそうです。

また、アスペルガー症候群の興味関心と仕事が結び付けば、大きな成果を成し遂げる事が出来ます。
事実、同じプログラムをデバッグをする場合、アスペルガー症候群のプログラマーの方の効率は、健常者のプログラマーの1.4倍にもなるというデータがあるのだそうです。

バリアの存在をなくす事によって、社会性を向上させるのと同時に、経済効果を見込めなければならないのですが、彼はそこに常に視点を定めています。
高槻駅では3〜4千万円を投入してバリアフリー化したのですが、その結果、駅周辺に2億円の経済効果があったのだそうです。
それは障害者のアクセスが増加して、経済活動が活性化したたためだそうです。
障害のある方は、外出する環境や意識のバリアがなくなると、活動したくなるものなのでしょう。
考えてみたら当たり前の事ですが、そこに気が付かないのが我ながら、実に情けない。

彼の小学校の時の友達が、キャバクラで客引きのアルバイトをしていたのだそうです。
そのお店はビルの2階にあるのですが、ある時車椅子の男性に声を掛けたのだとか。
そのビルは車椅子が通れるような構造にはなっていなかったのですが、いざとなったら小学校の時にしたように、オブって階段を昇ればイイやと思い、思い切って車椅子の方に声を掛けたのだそうです。
すると、望外にその方が喜んでくれたそうです。
恐らく、一度も声を掛けてもらった事がなかったのでしょう。
我々は、出来ればそっとしておいて欲しい客引きの方の営業活動ですが、車椅子の方には違うように写っていたのですね。
結局その方は友達にオブってもらいお店で楽しくひと時を過ごし、気分良く帰られたそうです。
すると、それ以降そのお店には、車椅子の人がどんどんと来店するようになり、随分賑やかになったのだとか。

こちらの思い込みが、どれだけ現実と違っていたのか。
バリアはフリーにするべきものだという思い込みが、どれ程近視眼的だったのか。
彼はまだ若いのですが、その経験を通じた若く新鮮な感性に紡ぎ出された言葉に、大きな気付きと刺激を得る事が出来ました。

これからは、Profitとそれに纏わるBenefitというバリューを掛け合わせて様々な事象を鳥瞰すれば、少しは慧眼を以って物事を観察する事が出来るようになるのかもしれません。

因みにお話しをしてくれたのは、株式会社ミライロの垣内俊哉君でした。

株式会社ミライロのHP
posted by 辻村謙一 at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年09月30日

“DIGITAL NATIVE,DIGITAL IMMIGRANTS”

digital_native_500pxjpg2.jpg


現実を直視せず、未来ばかり追っているのは、
霧のなかを手探りで歩いているようなもの。
逆に未来へのビジョンを持たず、
目先のことにこだわっているのは、
ぬかるみに足を取られているようなものだ。
【ケン・ブランチャード】



“これからは、FACEBOOKが凄いらしい。”

そう聞いて、半信半疑でFACEBOOKのページを開設したのが、昨年の春の事だったと思います。
最初は、アメリカの方式が日本で定着する訳がないという意見が大半を占めていましたが、その声もアクティブ・ユーザー数の増加に歩調を合わせるよ うに、どんどん減少しているように感じます。
中でも、本名が前提であるコミュニティが、長らく匿名性の高さ故広がっていった、日本のネット社会で受け入れられる筈がないという、半ば決め付け 的な意見が大半だったように記憶しています。

確かにこの議論は、半分は当たっていると感じます。
しかし、ネット自体が、コミュニティ・ツールとして利用しやすくなればなる程、利用者の属性もそれに呼応して広がっているようにも感じます。

テレビのCMでも、初老のお爺さまやお婆さまと思しき方が、孫にメールが送る事が出来てにこやかにひと言。

“私にも出来た…”。

このレベルでは、いわゆるデジタルデバイドの解消には程遠い。
しかし、はじめの第一歩に対する苦手意識を低下するためには、目的は明確である方が良いに決まっているので、パソコンの購入への貢献は大きかった のかもしれません。

私のような者にも、毎日のように友達申請が来ます。
しかし、数を増やす事が目的であるのは、私のFACEBOOKを使う目的からは少し逸脱しますので、知己か近い将来お目にかかる可能性のある方に 限らせて頂いております。
因みに私がFACEBOOKを使う目的が何かと申しますと、決して高尚なる考えや方針がある筈もなく、友達との交流ツールとして使いたいという、至極当たり前の事。

私の知り合いの中には、同年代だけではなく様々な年代の方からのリクエストがあります。
高齢者の方からのリクエストも時々あり、FACEBOOKを楽しんでいらっしゃるご様子。
お仕事の現場からは離れて久しいその方々からの素敵な書き込みには、心より感服申し上げます。
デジタルの本質が何であれ、それを自分なりに楽しむ姿勢が大切なのだと教えられます。

人生の諸先輩方に比べると、私は未だ達観していないというか、余計な事を考えすぎるのかもしれません。

FACEBOOKを使ったのも然程早くはないが、さりとて遅くも無い。
使っているうちに、どうにも使い方がシックリと来ずに、一体FACEBOOKとは何なんだろう…てな事を考えてしまう。
そうこうするうちに、同名の映画が上映され早速観て見たりもした。
関連する情報が集まれば集まるだけ、余計に訳が分からなくなる。

使っているうちに、分かって来るものなのかもしれない。
そう思って使い始めると、頻繁に謎に出合ったり、不具合に遭遇してまたまた困ってしまう。
お友達の多くが、シッカリと目的を定められ、素敵なメッセージを書き込んでいるのを見るにつけ、私の足踏み状態が情けないと感じる。

どうしてもこの状態を打破したくて、今に至るまで何度かFACEBOOKセミナーにも足を運んだ。
しかし、一度も私の悩みを解決してくれるセミナーには、残念ながら出会う事が出来ずに今に至っている。

私のFACEBOOKの使途は、友達との繋がりから派生するネットワークを通じた交流。
社会の構成員でもある各位が、企業活動や社会活動と連綿と繋がっているのも理解出来る。
FACEBOOKを、企業活動にも有用に使えるようにならないと、本質的にその機能を全うした事にはならない、という事は理解出来ているつもりです。
しかし、SNSをC to CからB to C to Cへとその対応を自然に且つ有機的に広げていくという事への理解が、どうにも進まない。

デジタル時代を生きている若者ほど、感性がフレッシュでないので、どうしても理屈で考えてしまう。
更にデジタル時代の影響を受けずにお仕事の現場を去られた方のように、潔い判断も出来ない。
私くらいの年代が陥り易い状態なのかもしれない。

デジタル時代を築き上げた、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、ティム・バーナーズ=リー、エリック・シュミット…は1955年生まれ。
ポール・アレン、スティーブ・バルマー、スコット・マクニーリは1953年〜1956年生まれです。
何故同じような年代の人ばかりが、パソコンの黎明期には活躍しているのか、非常に不思議でした。

マルコム・グラッドウェル氏の分析によると、1975年当時、大学を卒業して数年がたっていた人たちは旧世代に属するしかなかった。家を買ったばかり、既婚、もうすぐ子供が生まれる...今の仕事と将来の年金を捨て、397ドルのコンピューターキットという夢物語にかけるなどありえない。逆に若すぎても、革命に乗り遅れてしまう。
当時20歳か21歳、つまり1954年か1955年に生まれた人がハイテク界の巨人になる大きなチャンスを手にした」と。
「スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン」(カーマイン・ガロ著日経BP社刊)より

随分前の事になるのですが、NHKスペシャルという番組で“デジタルネイティブ”という言葉によって、子どものころから、インターネットを「水」や「空気」のように使いこなしてきた世代の事を紹介していました。
情報の豊富さやアクセスの容易さのみならず、真贋の見極めや解釈の問題等々、インターネットを「水」や「空気」のような存在として捉えている年代と、我々のように概念から入らなければ使う事も出来ない世代との違いは、隔世の感がありそうです。

米Gartner Research、シニアバイスプレジデントのPeter Sondergaardにより命名されたそうですが、生まれながらにITに親しんでいる世代をデジタルネイティブと呼称するのに対して、IT普及以前に生まれてITを身につけようとしている世代を、デジタルイミグラントと彼は呼んでおります。
ピーター氏によるネット関係の情報には、非常に多くのヒントが含有されており、改めて多くの事に気付かされます。

デジタルネイティブと呼ばれる世代の特色としては、「現実の出会いとネットでの出会いを区別しない」、「相手の年齢や所属肩書にこだわらない」、「情報は無料と考える」などの特徴があると指摘され、インターネットオークションなどでは購入にも売却にも積極的な層であるそうです。
また、更に近年新世代が誕生し、物心ついた頃から携帯電話やホームページ、インターネットによる検索サービスに触れてきた世代を「デジタル・ネイティブ第1世代」、ブログ、SNS、動画共有サイトのようなソーシャル・メディアやクラウドコンピューティングを使いこなし青年期を過ごした世代を「デジタル・ネイティブ第 2世代」と分類する意見も生まれました。

これ程の違いを生み出した、コンピュータやネットワークという存在が今後、更にどのような変革を我々に齎すのであろうか。
また、今後どんどん生まれて来る新しい世代の人々が、このインフラを使ってどんな世界を構築しようとするのだろうか。

関係ない…と捨象するのは簡単ですが、私の知り合いの方のように、先ずは使って楽しんでみるという姿勢こそが大切になって来るのではないかと想像します。
何故なら、もう我々では発想が出来ない程に、あたかもアメーバのように、多様化細分化が進んでいるように感じるからです。
いちいち定義付けから行っていたのでは、話しにならない。

自分自身の加齢を改めて冷静に認知し、先達から学ばせて頂く必要があります。
また、同時に新世代の人たちからも学ばせて頂く必要もあります。

デジタルネイティブの世代の陳腐化は進むでしょうが、幸いデジタルイミグラントはいつまでもそのままの姿で存在し続ける事が出来ます。
でも、これって安心して良い事なのかな。

謙虚な姿勢を忘れずに、学び続けたいと改めて思いました。

今年の秋は、読書の秋と決めて過ごしてみる事にしようかな。


NHKスペシャル
posted by 辻村謙一 at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年08月31日

“Post-Traumatic Growth”

2011.08用.jpg


成果をあげることは一つの習慣である。
習慣的な能力の集積である。
習慣的な能力は修得に努めることが必要である。
【ピーター・F・ドラッカー】



3月11日の東日本大震災発生から半年近く過ぎつつあり、被災者でない方々にとっては、震災に関する記憶も震災直後と比べようもない程に薄れつつあるのも事実。
その記憶を維持するためには、仕組みや意識及び何らかの働きかけが不可欠ですね。

被災地へ、復興活動のボランティアに行かれた方も多く、私も現地には行っていないものの、何人もの方々から現地の様子や事情を伺う機会があります。

阪神淡路大震災の時とは違い、広域に亘る被災地と津波による破壊、更には福島県の原子力発電所からの放射能漏れが重なり、被害は比較する事が難しい程に甚大です。
私はそれなりの年齢になりましたので、多少放射能の影響を受けたところで、それは運命として甘んじて受けなければいけない事…と、勿論自ら放射能を浴びに行く事はないにしても、冷静に受け止めるつもりですが、将来のある若者や子供たちには、絶対に浴びて欲しくない。

他方、ボランティア活動を強く求める被災地では、時間も体力もある若者の協力を求めていらっしゃるでしょうし、かと言って未来ある若者を手放しで現地に向かわせるのは、たとえ親でなくとも抵抗感がない訳ではないでしょうし。
今回の東北地方の震災の復興には、震災を忘れないための努力と共に、息の長い支援活動を続けていかなければなりません。
とは言え、私は未だ一度も被災地に足を運んでいないので、エラそうな事は何一つ言えないのが、恥ずかしながら現実ですけれど。

震災直後から、頻繁に募金活動への協力を依頼され続けていました。
最近は若干トーンダウンして来たようですが、私は申し訳ないですが、何度かの募金活動の末、募金を行う事を止めました。
募金活動自体を嫌っているからではなく、被災者へのお役に立っているという実感がないというのが、その一番の理由。
しかも、東日本大震災の物的被害額は16兆円から25兆円で、阪神大震災の被害額10兆円の2倍以上と、震災直後のデータですが政府により見積もられています。
私が仮に頑張って積極的に募金をしたとしても、私程度のサラリーでは募金額にも自ずと限度があり、完全に焼け石に水状態です。
それならば、現地のモノを優先的に購入する事で息の長い支援をした方が、恐らくは自然体で続ける事が出来ます。

現地へボランティアに行かれた方から、お話しを伺いました。
相応の日数分だけ確実に元の状態に戻りつつあるのでしょうが、それでもまだまだ復興したとはとても言えない状態にあり、現地の方からは、これを見て当時の様子を想像しないで欲しいと言われる事に、衝撃を受けたのだとか。
どれだけ被害が甚大だったのだろうか…と。

同じ日本人として、何とか被災者の方のお役に立てないものか。
そう思わない日はないのですが、私ごときに出来る事も限られていますので、せめてもの貢献として東北地方の商材を購入する事を繰り返す毎日です。

先日、ある私立の学校が所有している無人島を訪問しました。
この無人島をその学校が保有しているのには、当然理由があります。
今から数十年前に、当時のこの学校の教育上の責任者が、国際化教育や体育教育等の様々な取り組みを積極的に導入していたのですが、特に中学校生への人格教育を重んじて、そのための実践・鍛錬の場として、都会を離れた自然溢れる環境を求めて購入されたようです。

今も毎年、その中学校のある学年が、夏の時期に全員その島でキャンプを行っています。
男女の区別なく、電気もなく水道の水も運ばなければない、とても不便な場所で全員がテントでの生活をかなり長期間に亘り、過ごさなければなりません。
快適な生活に慣れた現在の子供たちにとっては、初めての不自由な生活と言えます。
暑くても、エアコンはない。
汗を掻いても、シャワーも殆ど使えない。
洗濯をしたくても、当然洗濯機もない。

更に、島には野生の狸が住み着いているために、余程注意をしなければ食事の準備中に食材を奪われ、その日の食事を食べる事も出来なくなる。
狸にとっても、食糧確保を行う事の出来る稀有な機会なので、必死です。

この島への滞在中には、教育活動の一環として、鶏を育てるプログラムも組み込まれています。
そして仕上げの段階になると、自ら挙手した何名かだけが行うのですが、この鶏を捕まえて足を縛り、頭を下にして吊るした状態で首を絞めて血抜きを行い、そして捌いた後でその鶏を食べなければなりません。
勿論、何故このような事をしなければならないのか。
その事について、直前に担当の先生から詳細な説明があります。

子供にとっては、最高に辛い経験でもあると思います。
何人もの子供たちが泣き出します。
何人もの子供たちが手で目を覆います。
何人もの子供たちが何故ここまでしなければならないのか、と目で訴えかけます。

そのような状態ではありますが、勇気を出して何人もの子供たちが、自らの手でその責務を果たします。

子供たちに、このような辛い経験をさせる事に対する、アレルギーのある方が多いのは存じております。
批判的な意見は、直ぐに集められるでしょう。
学校側も、そんな事は百も承知。

しかし、生きる事の意味をこれ程短時間に、これ程分かり易く、これ程インパクトの大きい方法で体験させる事の意味や意義は果てしなく大きいと思います。
生き物の命を頂いて、自らの命を永らえているという意識が、殆どなく育っている子供たち。
スーパーに行くと、キレイに捌かれたお肉やお魚が、部材として陳列されていますが、元の姿を窺わせるモノは一切ない。

子供たちにとっては、強烈な体験でしょうが、お食事の時間になると泣いていたのが嘘のように、ケロッとしています。
そして、当然感謝の気持ちは感じているようですが、美味しくそのお肉を食べています。
大人たちが思うよりも、子供たちの心は遥にタフで強いという事なのでしょう。
そして、学校側の思惑通り、大きく成長していたのではないかと思います。

PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)という、衝撃的な出来事で心が傷つき、様々な心身の症状が出て、日常生活に支障をきたす、いわゆる“心的外傷後ストレス障害”への認知は随分進みましたが、トラウマと呼ばれる大きな心の傷になるような、衝撃的な出来事の後で、むしろ成長することがある事が最近の研究で明らかになりました。
当然の事ですが、トラウマになるような衝撃的な出来事を経験した人の全てが成長する訳ではないのでしょうが、とても悲しいて苦しい、衝撃的な経験をした後では、その時には激しく傷ついたとしても、その後、むしろ素晴らしく人間として成長することがある事は、我々被災者は経験として知っています。
このような事象を、PTG(Post-Traumatic Growth)と呼びます。
和訳すると、心的外傷後ストレス障害に対して、“心的外傷後成長”と呼ばれています。

外傷後成長は、傷付いた人が元に戻る訳ではありません。
災害や事件の前よりも、肯定的な変化、成長が見られるのです。
それは、以下のような成長だそうです。

*自己の強さ(自信やスキル:技術、やり方)
*死への態度の変化
*人間関係の重要性の認識
*生に対する感謝の念
*ライフスタイルの変化
*希望(新しい事への関心)

人としての、深い面での成長と言えるでしょう。
大きな困難と心の傷を乗り越えたからこその成長であり、災害ボランティアなどの支援者との交流から生まれる成長であり、被災された方自身が誰かを助ける災害ボランティア的な活動をすることを通しての成長だそうです。

被災者のためのボランティアが実は、自らを成長させるために非常に有効に作用する(可能性がある)とは、何とも素晴らしい循環ですね。

被災地に思いを馳せるだけではなく、先ずは、勇気を出して行動してみる事が必要だと、離島で子供たちの姿を見ながら感じさせられました。
被爆は確かに避けたいのも本音ですが、お仕事が少し落ち着いたら、被災地に行ってみよう。
そう心に決めました。

子供たちに感謝です。
私も子供たちに負けないように、もっと成長しなきゃ。


“否定的事象の経験と愛他性” 東洋大学社会学部紀要第47-2号(2009年度):安藤清志著
posted by 辻村謙一 at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年07月31日

“High Context Culture”

秋の七~1.JPG


執着しなければならないのは結果じゃなく、
過程だ。
仕事のプロセスそのものに惹かれ、 
そこを一生懸命やりたいという一心があって 
はじめて結果をもたらす。
【ヒュー・プレイサー】


あくまでも私見ですが、今月、最も印象深かったのは、やはり“なでしこジャパン”によって達成された、FIFA女子サッカー世界大会の優勝でした。
兎角沈滞しがちな現状への、何よりの明るいニュースだと感じました。
キャプテンである澤穂希選手の活躍が、メディアによって頻繁に取り上げられていますが、今回の勝利は彼女のコメントにもある通り、個人の力ではなく、チームの力が齎したものである事は間違いないでしょう。
一人一人が戦うと勝てない相手であっても、チームになると勝てる場合もあるという事実は、我々の日常生活に於いても、様々な示唆があるように思えます。

チームの面々による活躍の凄さや、特筆すべきチームワークは確かに素晴らしいと思いますし、賞賛を惜しみませんが、私はそれよりも、監督の存在や監督とメンバーとの関係性に非常に興味が惹かれます。

そもそも、代表選手だとは言え、親子程に年の離れた二十歳代の女性から、親しげにニックネームで呼ばれる事にも驚かされますが、そのような呼称を使っているのは選手との距離感を近くしたいから、という理由からだけではなさそうに思います。
あのチームで勝つために必要だから…という事なのでしょうが、どのようなプロセスを経てその結論に至ったのだろう。

ある記事に、目を奪われました。

----------ここから本文----------

 21人の個性をまとめ上げ、日本サッカー史に残る快挙に導いた。佐々木則夫監督(53)は「尊敬できる選手を預からせてもらって、感謝している」と笑みを広げた。
 07年12月にコーチから監督に就任。準々決勝では、後半に投入した丸山が延長後半に決勝点を奪い、準決勝では先発起用した川澄は2得点を挙げるなど、控えのFWを使う采配が的中した。
 選手からは「のりさん」と呼ばれる。指導は厳しくも細やか。試合翌日の練習が象徴的で「控えの選手しか見ない。ちょっとしたしぐさを見逃さず、話し掛けて気持ちを測る」という。休養日には「あんまり見たくないでしょう」と選手と顔を合わせない。気配りの人でもある。
 帝京高から明大を経て電電関東(現J1大宮)入り。引退後は監督や強化普及部長を歴任した。遠征に親交のある漫談家、綾小路きみまろのDVDを持参。報道陣を笑わせるのはお手の物だ。家族は妻と1女。休日には「女房を愛せない者はなでしこを愛せない」と淳子夫人との晩酌と、愛犬の散歩で疲れを癒やしている。

http://www.daily.co.jp/soccer/2011/07/19/0004284501.shtml
2011年7月19日 デイリースポーツオンラインより一部抜粋

----------ここまで本文----------

監督が選手を尊敬するのは、このような偉業を果たした経験のない私にだって、少し理解出来ます。
世界戦を戦うに相応しい、壮絶な練習や戦いを経て来た選手と共に過ごしている訳ですからね。
しかし、試合翌日の練習では、レギュラー選手には一切目をくれずに、控えの選手に注力し続けるのには少し驚かされました。
チームに選ばれるだけで、相当の実力があるのは当然の事。
その中から、フィールドで戦えるのは一部の選手。
しかし、控えの選手との差は、恐らくはホンの少し。
その少しの差が大きいのだけど、差だけに注目すると不公平感は絶対に払拭が出来ない筈。
特にチームワークを大切にしなければならない監督業という職務領域に於いては、この不公平感の解消こそが、モティベーション向上へのキーワードになりそう。

あの人が選ばれたのは必然であり、私が選ばれなかったのも必然。
逆に言えば、あの監督が選んだのは必然であり、チームに必要な選択肢なのだ。
そうメンバーが思って、フィールドでの活動に注力出来たからこその結果。
そう思われなかったとしたら、誰だってフィールドで戦うために練習を重ねて来た訳ですし、出たいのは当然の事なので、足の引っ張り合いになるに違いない。
だからこそ、戦う選手にも控えの選手(もしかしたら、次の試合に備えている選手という意識なのかもしれない)にも、等しく目を配りながら現状掌握が不可欠なのでしょう。

凱旋帰国直後のインタビューでも、全てを見た訳ではありませんが、選手間へのリスペクトを求めていたように見えたのですが、勘違いではないと思います。

佐々木監督のこの姿勢は、女性だけのチームにだけではなく、あらゆる組織で参考に出来る事例だと思います。

佐々木監督は監督である以前に、教育者でありそう。
人を幸せにしたり将来への希望や期待を醸成するのは、教育の領域。
どうせ勝てない、という閉塞感を見事に払拭したのは、佐々木監督の教育的手法が結実したが故の結果。
詳しく調べた訳ではありませんが、全ての選手が世界戦で戦えた訳ではなく、控えで終わった選手もいたのでしょう。

しかし、世界一になったという実感を、全ての選手が獲得して、喜びを共有していたのが、実に印象的でもありました。
団体やグループに於いて、その構成員の全てがヒーローやヒロインになれる訳ではない。
そんな事は当たり前なのだけど、その当たり前の事が当たり前でないのが、今の学校教育(特に幼児教育)ではないか。
だから、主人公が何人もいるヘンテコな寸劇をお遊戯会でしても、誰も何も言えないし、言わない。
世の中の大切な仕組みや、それぞれの役割を教える最初のチャンスなのに、道理が廃れば無理が通る現状を体験させて良いのだろうか。
現状を変えるのは大変な労力と時間が必要ですが、少なくとも現状に対して多くの人がオカシイと感じる事位は、賢明な国民である日本人なら、容易に出来そうです。
現在の教育業界が最も必要としている手法を、佐々木監督の思想や行動様式から気付き、学べるのかもしれません。

教育心理学に於ける、有名な理論の一つに“ピグマリオン効果”という心理学的行動があります。
これは、教師や教育者の期待により、学習者の成績等が向上する事を言います。
(実は反対に、教師や教育者の期待がなく、学習者の成績等が低減する事を“ゴーレム効果”と言います。)
ピグマリオン効果については、人間は期待された通りに成果を出す傾向がある事の現れとされていますが、教師や教育者が期待すれば、全ての学習者の成績が向上するという訳ではありません。
教師や教育者は教えるという活動によって、学習者の学習をサポートしている訳です。
しかし、それだけでは勿論十分な学習効果が期待出来る訳ではありません。
学習者も自らが自主的に学習を行う必要があり、また自主的な学習がない限り、自らの成長の実感も薄い。
自主的な学習意欲が、更なる学習への意欲へと直結し、その成果として素晴らしい結論へと到達出来る可能性が生じるのは、当然の事。

情報のやり取りを、頻繁に行える現代社会に於いて、今の時代を生きる若者への教育手法もきっと多様化しています。
褒めて伸ばす手法は、相変わらず有効なのかもしれませんが、褒め方や褒めるタイミングや褒める状況が大切。
どのように褒めるかが、教師や教育者の手腕の問われるところ。
磐石な信頼関係を築き、期待をしながらも極めて精緻に状況を掌握し、その上で適切に対応する(多くの場合、褒める)事によって、更に大きな力を発揮するチームになる。
今回のチーム佐々木(勝手命名)は、それを実現したからこそ世界一になり得たのではないか。
アメリカやドイツのローコンテクスト(共通のコミュニケーションの基盤が少ない)カルチャーな競合国とは違う、ハイコンテクスト(共通のコミュニケーションの基盤が多い)カルチャーの日本人ならではの勝ち方を、極めて忠実にトレースした結果だとも言えそうです。

今回の、なでしこジャパンの活躍で、女子サッカー界にも世間の注目が集まり、彼女たちが子供たちにとっての憧れの存在となり、サッカーをする女の子が一人でも増えたら素敵です。
でも、同時に、佐々木監督のような監督スタイルにも、もっと注視し学ぶべきだと思います。

Edward T. Hall's website

posted by 辻村謙一 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年06月30日

"Gross National Happiness"

id127.jpg


危険から守り給えと祈るのではなく、
危険と勇敢に立ち向かえますように。

痛みが鎮まることを乞うのではなく、
痛みに打ち克つ心を乞えますように。

人生という戦場で味方をさがすのではなく、
自分自身の力を見いだせますように。

不安と怖れの下で救済を切望するのではなく、
自由を勝ち取るために耐える心を願えますように。

成功のなかにのみあなたの恵みを感じるような
卑怯者ではなく、失意のときにこそ、
あなたの御手に握られていることに気づけますように。

【ラビンドラナート・タゴール】



食べる事に関しては、おそらく人並み以上に好きな事は、自他共に認める事実ですので、食に関する興味と関心も高い方だと思うのですが、決して詳しい訳ではありません。
しかし、人は食べる事なしに、長らくその生命を維持する事が出来ないのは、明白な事実だという事位は分かります。
また、どのような食事を摂取するのかによって、身体に及ぼす影響が少なからずある事も分かります。
加齢と共に食性が劇的に変化していくのが何よりの証左でしょう。

先日、NHKテレビに於いて、衝撃的な事実が放送されたと聞きました。
以下に抜粋して引用させて頂きます。

老化を遅らせ、寿命を延ばす遺伝子が見つかった。「サーチュイン遺伝子」というその遺伝子は、特別な人でなくても、誰もが持っている。うまく働かせられれば、平均寿命は100歳を超える。
サーチュイン遺伝子は最初に酵母で見つかり、その後、ハエ、ネズミ、サル、ヒト、と、地球上のほとんどの生物が持っていることが分かった。動物実験では、サーチュイン遺伝子の働きを強めることによって、寿命が20〜30%延びることが確認された。
「ミトコンドリアが出す活性酸素」「免疫細胞の暴走」など、老化をもたらす具体的な要因が最新の研究で分かって来ている。サーチュイン遺伝子がONになると、指揮者のように働いて、100近くの老化要因を抑える。その結果、肌、血管、脳など様々な器官が若く保たれ、寿命が延びるのだと考えられている。
この遺伝子、万人が持っているが、普段は眠っていて働かない。しかし、働かせる簡単な方法も分かった。さらにはサーチュイン遺伝子の機能を高める“長寿薬”も開発途上にある。
出典:http://www.nhk.or.jp/special/onair/110612.html

この夢のような遺伝子をどのようにすれば、働かせる事が出来るのか…。
実に簡単な事だそうです。
小食にすれば、その遺伝子が“目覚める”のだとか。
具体的には、通常必要な摂取カロリーを30%制限するだけで活性化させることができるとの事。
カロリーベースだと分かり難いのですが、腹6分目を目処にすれば良いという事でしょうか。
とは言え、主食や副食を考慮に入れず、お肉ばかりを腹6分目食べても、逆効果なのでしょうけど。
飽食の時代に生きる我々や、食いしん坊の私が食欲に打ち克つのは難しいのも事実ですが、取り返しのつかない状態になる前に、徐々に小食への準備を進めた方が、確かに幸せな老後が送られそうな感じがします。
欲深い私だって、折角この世に生を受けたのだから、出来れば健康に長生きしたいって思っています。

他方、江戸末期に日本の飛脚を見た外人が、彼らの健脚ぶりと体力に驚くと同時に、その質素な食事内容を知り、驚かれたそうです。
彼らの考え方の基本には、体力を獲得するには肉食が不可欠なのに、この細い身体の人たちは何故肉を食べないのにこんな事が出来るのか、彼らの常識で判断するには理解の域を超越していたからですが、自分たちの理論の正しさを証明するためなのかどうなのかは分かりませんが、飛脚に米の変わりに肉を食べさせました。
与えられた方はさぞかし嬉しかったでしょうね。
しかし、異文化間折衝がそう簡単にはいかないのは、今も昔も同じ事。
肉の摂取後数日を経て、肉を与えられた飛脚から、肉食では体力が持たないから粗食に戻して欲しい、との申し出があったそうです。
肉は内臓負荷が高く、やはり米を中心とした食事が日本人には適応しているという証拠なのでしょう。
近年、多様化した食生活に慣らされ過ぎているのか、肉を食べようがさしたる影響がないように感じてしまうのは、もしかしたら遺伝子のスイッチに大きな目隠しをしてしまい、消化器官を筆頭に必要な器官の感度が鈍っているからなのかもしれません。

昨年、“降りてゆく生き方”という映画と出会いました。
この映画は、映画館で上映をしない、テレビでも放映しない、そしてDVDとして販売する予定もない…という従来の映画とは全く違う考え方で、各地方のコミュニティを少しでも活性化させるために、映画上映の前にワークショップを頻繁に開き、テーマを十分知らしめた上で上映会を行うというスタイルを貫いている映画です。
上映開始は2009年4月なので、既に3年目を数える今でも、全国各地から大きな反響が寄せられています。
この映画の仕掛け人である森田貴英氏とKRPの樫野孝人氏が、ある映画を通じて知り合った事から、私もこの映画を知る事となり、と同時に森田氏を紹介して頂く事も出来ました。
森田氏は、酸いも甘いも味わった人でしか獲得出来ない、独特の感性の持ち主だとお見受けしました。
その森田氏が、この映画を作ろうと思ったきっかけの一つが、木村秋則氏の“奇跡のリンゴ”という本に出会った事。
木村秋則氏は、NHKのプロフェッショナルという人気番組に登場した事を契機に、一躍時の人となりましたが、誰も絶対になし得ないとされていた無農薬・無肥料でのリンゴの栽培に世界で始めて成功なさった方です。
小手先だけの改良農法でそれが実現出来る筈もなく、その苦労が半端ではなく甚だ大きい。
だからこそNHKも番組の中で、氏の取り組みを国民に紹介したのでしょう。
何年もの間、苦労に苦労を重ね、限界に何度もぶち当たり、遂に自殺をすべく死に場所を求めていた時に、大きなヒントと出会う事になるのです。
しかし、木村秋則ご本人はその苦労を全く感じさせる事のない、極めて穏やかな方です。
壮絶な経験をなさったこの方が、どうしてこのように穏やかで且つにこやかな表情でいられるのだろう。

木村秋則氏の作ったリンゴは、必要以上の栄養を与えないから根がどんどん地中に張って行く。ワインの味を左右するブドウを美味しく育てるためには、痩せた土地で育てる必要があり、そのような土地で育った美味しいブドウを使ったワインをテロワールといいます。このブドウと同じく、木村氏のリンゴも根が土壌中の様々な微量の元素を取り込み、香りや味が複雑で奥行きのあるものに育ったと考えられています。リンゴの大敵である台風にも木村氏のリンゴは、極めて強い耐性を有しているのも当然の事なのかもしれません。
6月18日に神戸にて、木村秋則氏の講演と素晴らしく感動的な“降りてゆく生き方”の上映という、実に贅沢な2本立て×2講演企画が実現し、私も微力ながらお手伝いさせて頂きました。
その関係もあって、出演の合間を縫って、ご本人とお話しの機会を与えて頂けたのは、何よりの幸福。
津軽弁丸出しで、常に笑顔でお話しになる木村秋則氏からは、成功した人特有のカリスマ性も感じさせられませんし、驕りや高ぶりは微塵もない。
テレビで見たのと全く同じく、穏やかでにこやかな表情で接して下さいます。
内容は、さすがにとにかく濃い話しが殆どですが、関西人にありがちな“どや凄いやろ”的な感じでもなく、常に笑いとオチが用意されている楽しいお話しばかり。
木村氏には歯がないのが(実際にはとっても小さな前歯が1本だけ残っているのですが)特徴的ですが、自分の歯の事ですら挨拶代わりに面白可笑しく茶化して紹介する程に。

私が今までに接した、その分野を極めた職人の方に共通する事ですが、極めて簡便な言葉を羅列して言葉として発しているのにも関わらず、結果として非常に意味深く感じさせられ、心にも深く刻み込まれる。
これは受け手の先入観ではなく、おそらくは伝え手の経験から獲得した説得力のなせる業。相手に与える威圧感は全くない代わりに、言葉に引き込まれて行く不思議な感じ。相手を説得しようとする意図が全くなく、とことん突き詰めた中から紡ぎだされるようにして生まれた言葉だからこそ、逆にこのような自然な説得力が生まれるのではないかと、想像します。

競争社会と言われて久しい昨今ですが、便利に安全に快適に上質にと右肩上がりの価値観を常に求められている現状に対して、私はさしたる疑問を差し挟む事なく過ごしていました。
しかし、今回の地震を契機に絶対に安全だと言われて、何等疑問にも思わなかったその安全性が、実は物凄く危うい状態だった事が露呈してしまいました。
安全性が担保されるまで電力供給も不安定な状態が続き、それに伴い人々は節電を求められていますが、暑ければエアコンに頼っていた当たり前だった現状が、如何に有難い事なのかを思い知らされる毎日です。
煌々と点る町の明かりが減光し、夜の街に輝くネオンが消えた瞬間に、活気があれほど喪失してしまい、消費活動を左右するという始めて知る現状にも驚かされた。

右肩上がりの価値観とは、実に危うい状態を担保に成立していたとも言えます。
また、人間の欲の声に耳を傾け過ぎていた結果だとも言えます。

現代社会に於いては、足りなければ外部調達する…といったような、足し算の発想だけでは判断出来なくなってしまったのかもしれません。
先のサーチュイン遺伝子を摂取すれば、長生きが出来るからと例えばサプリメントを摂取しようとするならば、その考え方は間違いなのでしょう。
遺伝子そのものではなく、遺伝子を目覚めさせる行為自体に意味と価値がある事を、認知しなければなりません。

我々日本人は基本的に農耕民族です。
文化文明がそれ程発達していなかった頃の我々の祖先は、天地自然の理が何であるのかを認知し、地球が何であるのかという認知を超越し宇宙や自然や生物との一体感の中で生活を営んでいました。
自然が何であるのかを認知し、支配するのではなく自然と共に存在し、自然の恵みに感謝し、そして祈ります。
個としての人間をお互いが尊重しながら、相互扶助の関係を築きながら生きていました。
農耕民族として、育てる事が生活の中にも当然当たり前にあった筈です。

木村秋則氏の言葉の中で、以下の言葉が心に沁みました。

「〜この花を咲かせたのは私ではない。リンゴの木なんだとな。主人公は人間じゃなくてリンゴの木なんだってことが、骨身に染みてわかった。それがわからなかったんだよ。自分がリンゴを作っていると思い込んでいたの。自分がリンゴの木を管理しているんだとな。私に出来ることは、リンゴの木の手伝いでしかないんだよ。失敗に失敗を積み重ねて、ようやくそのことがわかった。それがわかるまで、ほんとうに長い時間がかかったな。」

結果を急ぐ余りに、成果を求め過ぎていたのかもしれない。
今回の東日本大震災を経験した我々が学ぶべきは、結果を急ぐ事ではなく、もう少し俯瞰した長期的な視点で、事象や物事の判断をする必要があるという事なのではないか。
我々の感性のどこかに、育てる(育つ)という因子を埋め込む必要があるのではないか。
そんな事を感じさせられました。

1972年に、ブータン前国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク氏が「国民全体の幸福度」を示す尺度として“国民総幸福量”という考え方を提唱しました。
英語の記載は“Gross National Happiness”
その頭文字を取って“GNH”と表示する事が多いのですが、これは明らかに“GNP”に相対するアンチテーゼです。
“GNP”が金銭的・物質的豊かさを目指す指標であるのに対し、“GNH”は精神的な豊かさや個人が感じる幸せを目指すべき指標です。
個人の幸せ度をどのように測るのか、非常に興味深いのですが、ブータンでは政府が具体的な政策を実施し、その成果を客観的に判断するための基準にまで仕上げているのだそうです。
中国とインドの間に位置するブータンでさえ、1990年代からの急速な国際化の波が押し寄せて来ます。
自国民のために、ブータンで当たり前であった価値観を、改めてシステム化する必要があったそうですが、20年後の社会を予測して、この事を実現した意味や意義は非常に大きいと感じます。
1972年といえば、日本では高度経済成長期の末期。
田中角栄氏が日本列島改造論を発表し、日中国交が正常化したその年。
日本が繁栄を享受する事しか考えていない、そんなタイミングで国民の幸福度の総量を達成させるべく、政府の施策としたこのブータンという国の王様は、とても素晴らしく先見性があったと言えます。
因みに2007年に初めて行われたブータン政府による国政調査では「あなたは今幸せか」という問いに対し9割が「幸福」と回答しました。

イギリスのレスター大学の社会心理学者エイドリアン・ホワイトによって作成された国別の幸福度を表した世界幸福地図(World map of happiness)によるとブータンは8位。
どのような基軸でこの順番になったのかは、存じませんがトップ20は以下の通り。
1.デンマーク
2.スイス
3.オーストリア
4.アイスランド
5.バハマ
6.フィンランド
7.スウェーデン
8.ブータン
9.ブルネイ
10.カナダ
11.アイルランド
12.ルクセンブルク
13.コスタリカ
14.マルタ
15.オランダ
16.アンティグアバーブーダ
17.マレーシア
18.ニュージーランド
19.ノルウェー
20.セイシェル

衣食足りて礼節を知る…の例にもある通り、経済的貧困と不幸度との相関があるのは容易に想像できますが、しかし、経済的な豊かさと幸福度との相関は殆どなさそうです。
では我が日本はと申しますと、何と178カ国中の90位。
出典:http://www.eurekalert.org/pub_releases/2006-07/uol-uol072706.php

木村秋則氏が穏やかでにこやかな表情で、誰にでも接する事が出来るのは、やはり現状が幸せだからだと感じます。

何に幸せを感じるのかは、人それぞれ。
絶対に、人との比較の中から生まれて来るものではありません。
自分の幸せについて、俯瞰して考えてみる良い機会なのかもしれません。

感謝の気持ちを持ちながら、多くの友達と共に出来るだけ健康で、出来るだけ長生きするのが、私にとっての幸せだと感じます。
更に、このような自問自答に対して、直ぐに答えを出せる事こそが、幸せな事なのでしょう。

最後にもう一つだけ木村氏の言葉をご紹介します。

「〜バカになるって、やってみればわかると思うけど、そんなに簡単なことではないんだよ。だけどさ。死ぬくらいなら、その前に一回はバカになってみたらいい。同じことを考えた先輩として、ひとつだけわかったことがある。ひとつのものに狂えば、いつか必ず応えに巡り合うことができるんだよ、とな。」



幸せとは…。


降りてゆく生き方|映画&総合情報 公式サイト
posted by 辻村謙一 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記